Ville en forme de bagel
登場人物…
登場人物…
Lune Froidリュン・フロワ
テントに湯を沸かし、リュンはタンブラーにインスタントコーヒーを淹れてくれる。クームは、持っていたベーグルサンドの一つを家主に渡し、自分ももう一つのベーグルサンドを食べた。
「オーロラが最初に現れたあの夜、俺はどこかの屋上にいて、訳もわからず空を見たんだ。GSMはポケットから出てきたのに、磁気嵐で使えないからな。今思い返すとさ。気づいたら知らないところにいた……って日は、全部、太陽風が強い日だった……」
確率分布の話、だろうか。リュンは量子力学のように微笑む、こともなげに、でもどこか弾むように。クームには何を言っているかわからない一方で、頭痛は去り、心地好い眠気が押し寄せていた。ちゃんと夜に眠くなるなんて、磁気嵐が来てからは初めてのことだった。
「シャワーがあるネットカフェで寝ることもあるけど、今夜はテントにした。おかげで、お前に会えたよ」
「ここ、テントなんて張っていいの」
「そうか、それならあすには引っ越さないとな」
テントは二人用なのかも知れない。二メートル近いのではないか、というほどの身長のリュンと、がっしりしているが少し肥満気味でもあるクームとでは、テントはとても狭かった。
「君、モデルみたいだ、緊張するよ」
そう、まるでこの匿名性は、ファッションモデルのそれだった。
「ナンパか」
クスクス笑った後、ふたりの言葉は堰を切った。学校のこと、影響を受けたバンド・デシネ、子供の頃流行ったゲームのこと、まるで久しぶりに会ったように言葉をぶつけ合う。話し疲れて眠ってしまう前、クームは、リュンがベーグルを見て言っていたことを、思い出した。
「なあ、ベーグルの穴ってさ」
「穴?」
「ブリュッセルみたいだな。ベルギーとして独立しなければ、穴じゃなかった。でもベルギー人もベルギー語もないまま国になったから、穴なんだ。これがフランドル」
そう言うとリュンは、ベーグルサンドの上の方の生地を指差した。
「これがワロン」
今度は、下の方の生地を指差して見せる。真ん中で二つに切ったベーグルを、また合わせたような国に、クームたちは暮らしているのだ。その間に、ベルギーらしさのようなものが挟まれて。
誰でもあるようで、誰でもない。それはリュンだけではなく、クームも同じなのだろうか。
「……僕、ブラックホールにすごく興味があるんだ」
「ブラックホール……」
「うん。いま、どうしてこんなに体積のない存在に注目してしまうのか、わかってきた気がするよ」
ベルギー人だけじゃなく、ゲイにも体積はないかも、と、クームは言わないでおいた。明日はこの少年を、クームのあの寝台車に招くつもりだったから、そしてただの基地の仲間でいられる日々は、限られていると思ったから。
Witse Coëmeウィツェ・クーム
こちらに斜めに迫る一面の窓ガラスが、ほとんど寝台車の二階のようだ。七月、月のない夜だった。無線機のモニターを買って以来、ポー、とも、コー、ともつかないビーコンが、この部屋のBGMとなっている。サー……というホワイトノイズの揺れの中、まるで量子場にぽっかり生じた光子のように、WWVの衛星が名乗っている。
こちらに斜めに迫る一面の窓ガラスが、ほとんど寝台車の二階のようだ。七月、月のない夜だった。無線機のモニターを買って以来、ポー、とも、コー、ともつかないビーコンが、この部屋のBGMとなっている。サー……というホワイトノイズの揺れの中、まるで量子場にぽっかり生じた光子のように、WWVの衛星が名乗っている。
すると、心地よい音が途切れ始めたので、クームはラジオに変えてみた。だがヘルツを回せどもノイズは消えない。AM帯もFM帯も、紙袋のような同じノイズに縦断されてしまうのだ。そのとき、無機質な調子で宇宙天気予報が嵐を告げた。
……ザラザラ……ザザ……
突然アナウンスが絶叫に変わる。激しくスペクトラムが上下し、阿鼻叫喚というより野太く、切り刻まれる声は誰のものでもなくなった。
言葉になる直前で引き裂かれながら、アナウンスはK指数五から六、という数値を告げたらしかった。ふわりと、寝台車の窓に、見たこともない赤いトポスが揺れる。クーム自身の目の不調かと思うほど微かだが、眼鏡を外し、再び掛けると、トポスは皺が寄っては伸ばされ、柔らかく大気を彩っていた。ふわふわ、繊細で光沢のあるそれが揺蕩うのに合わせて、ラジオはめくるめく歌った。
……ザザザ……ブザーが鳴ると世界協定時零時です……ザラザラ……
地上には屋根のアンテナ達がシルエットを見せている。その一本がビルの間を、恰も自身の庭であるように散策して、隣の貯水槽へ飛び移った。クームは思わず布団から身体を起こした。細い影は人間のように見える。落書きの棒人間にも見えるそれに、クームは携帯電話を構えるほかなかった。
だが、ズームできない。ピンチインの指が、虚しくカメラの画面を撫でる。
この列車はどこに停まるのだろう、というより、いま、クームが座っているここはどこだろう。マップで現在地を見たいのに、アプリ起動すら難しいのだ。
……ガサガサ……ザザザ……低緯度地域でオーロラが見える場合があります……これには……が含まれます……ザザ……
夜空の不気味な赤みは、次の夜も続き、クームは夕方にアルデンヌの自然公園へ出発して、それを眺めた。夜を照らすだけではなく、夕方と明け方に、それは昼間のように地表を白ませたのだった。
枕元のこれは、もうクームのよく知るモニターではないかのように見える。オーロラに共鳴して、世界中の機械たちの従順な表層が一枚一枚、剥がれてしまったのだろうか。
クームの携帯電話は不調のままだが、天体望遠鏡はあの影を捉えた。オーロラを見物に来たか、二日前と確かに同じ、細すぎる影がまた屋上に立っている。観察していると、細いのではなく身長が高くて、四肢が長すぎるのがわかった。襟足は刈り上げられ、頭頂の髪が風に遊ぶ。顔を見ると年齢はクームと変わらないようだったが、拡大するせいで、影が少し動けば見かけ視界から突如、消えた。アナウンサーの声を借りた何かが、K指数が七に上がったのを告げる。
周波数を合わせ、クームはまたビーコンを蒐め始めた。赤く染色された時空の歪みが、この僅かな音を運ぶのだろうか。クームの部屋に、見知らぬ局が運ばれて来ている。それは人工衛星のCWがすごい速度で近づき、遠ざかるのとは明らかに異なる。霧箱の軌跡が、ふっ、と白く浮かぶのに似ていた。
遠い。見知らぬ異国で誰かが、ツー・トンを入力している気がしたそのとき、しかしその信号はすぐ消えるのだった。
いつしか眠ってしまい、屋根から足音がするので、目が醒めた。身体が重く、そんなに太ったのか、と憂鬱になりかけた時、頭痛に気づいた。
見上げて見ると、作業員たちの声がした。まるで低気圧のほう、雨や風があるほうの嵐でも来たみたいに、UHFアンテナを整備しているか、もしくは付け替えているのだ。大家に、この通信障害は太陽風が弱まれば復旧する、と教えたほうがいいだろうか、とふと思うが、もっと以前から予約していたのかも知れない、とも思う。作業員は二人組で、歳上らしい者が、アマチュア無線は面白いか、学校の好きな科目はなんだ、と話しかけてやっているのが、僅かに聞こえてきて、クームは驚いた。作業員のもう一人は学生のアルバイトなのか。UHFアンテナを大家はテレビのデジタル放送の為に、クームは無線に使っているので、作業員が無線の話題になるのも自然なことだった。
クームは空腹を覚え、着替えを始めた。
「Wi-Fi が使えないんだけど、テレビだけは映るの。ヴォーが復旧したって」
「?」
「スイスで大規模停電っていうのがあったのよ。そちらは無事かしら?」
「はい……無事です」
ベーグルのキッチンカーの主人に、フランス語で息災かを問われ、クームは数日ぶりに、ここがユックルであることを確認した。話好きらしい主人は、航空機が全便欠航していること、アルプスの登山が制限されたことを、テレビが教えたままクームに話した。
クームはカフェラテも頼んで、ほかにもユックル市民のいるベンチに腰掛けてみる。空は青く、オーロラが嘘のようだったが、隣の人々は、何日このままなのかとオランダ語で囁き合って、不安げだった。
日は既に傾いており、鳩は市民の足元を歩いて、パン屑を探した。この大気の底にいれば、通信障害のほかはなんら問題ない。遠心力で大気は赤道のほうへやられ、南極の基地では保護が薄くなっているなか、防護服を一度でも脱げば、破壊された細胞からもう二度と、新しい皮膚が作られなくなるかも知れないのに。鳩はいつもの歩幅で、規則的に、首を振りながら歩いているのだった。
キッチンカーのあった公園を抜けて、不安なまま辿り着いた市民センターのドアは、果たして開いた。二階の市役所と三階の郵便局、四階の図書館に多くの市民が集まるのを見届けたのち、更にエスカレーターを昇れば、最上階のプラネタリウムの扉の前には、短い列ができている。クームはここに、プラネタリウムを観に来たのだ。受け取ったパンフレットには、ケンタウルス座Aを背景に、白抜きで文章が印刷されている。そして銀河自身の直径を遥かに上回る、長いブラックホール・ジェットが回転軸の両側へ、対称に放射されていた。このビームが銀河の形成に少しも関わっていない、ということはないのだろう。
十九時になるすこし前、クームは、まだ照明の点いたままの席で、パンフレットの裏の有名な写真を見つめる。M87の中心にある、巨大ブラックホールの赤い環だ。夏休みが終われば、六年生として授業が始まる。つまり、クームがブラックホールに関心を持つようになって、一年が経とうとしているということだった。
中等教育五年生になる秋に、一人暮らしすることになった。ウィツェというフランドル系の名前、クームというワロン系の苗字をもつ息子を、ブリュッセルは迎え入れるだろうと、フラマン人の母、ワロン人の父は承諾した。少し気まずそうだったのは、心の距離がそのまま、ついに地理に表れてしまうことになるのだから、自然なことだった。でも、その距離がどうして生じたか、ふたりにもその要素の総ては、分析できなかっただろう。
ひとり、あの寝台車で、成人向けコンテンツを見ても男性にしか関心が持てないこと、そしてブラックホールに心を囚われて、ノートの数式にばかり向き合ったこと、先にクームを孤独にしたのはどちらだっただろう。去年九月、クームは編入生である以上に、本当に独りになった。
いつしか席は市民で埋め尽くされ、フランス語の解説員は、穏やかな声で歓迎した。撮影や飲食を牽制し、非常出口を示し、そして薄暗いままのドームに、夕方のユックルの景色を映し出す。まだ扉から、数人の市民が入って来て、息を弾ませた。
「ユックル市民センター、プラネタリウムへようこそ。こんばんは。 七月四日、十九時、ワロン語版の投影が始まります。先ずは、このプラネタリウムの方角から確認してみましょう」
高齢の男性らしい解説員は、投影機を手動で操作し、夕暮れ空に白い矢印を投影した。明らかに光学式投影機の光だ。それが指し示す南の方角には、パノラマ撮影されたであろう森が見える。
「皆さんから見て、正面が南です。南を見ると、ゆるやかな高台の向こうに住宅地と森が広がります。皆さんのお家はありますか?」
すると、すっ、と矢印は左へずれた。
「今度は左です。東、という文字が見えますか? 東には、ブリュッセル中心部の市街地があります。街の灯りが最も強く、夜空は明るく霞んで見えます。 自然豊かなユックルを含め、ブリュッセルの夜には、本当の暗闇はありません。ここでは、夜が更けても、一等星がちらほら見えるだけ……今度は東の反対、西です。見えましたか? ワーテルロー方面、低く開けた地形が続きます。 日が沈むと、空はゆっくりと色を失い、昼から夜へと切り替わります」
お休みなさい、と語りが囁くと、プラネタリウムの白い太陽が、Ouestという文字目掛けて徐々に沈んでいくのが、地上の写真の辺りに重なるくらいで、ちょうどフェードアウトした。注意事項の確認から地続きだったが、ここで客席は完全に暗くなり、非常口の灯りもない。解説は、北極星の位置の確認に入り、そこから七月の夜空の星の見つけ方を詳しく説明し始めた。金星、夏の大三角、見えるのはそのくらいだ。
……ザラザラ……ザザ……
突然アナウンスが絶叫に変わる。激しくスペクトラムが上下し、阿鼻叫喚というより野太く、切り刻まれる声は誰のものでもなくなった。
言葉になる直前で引き裂かれながら、アナウンスはK指数五から六、という数値を告げたらしかった。ふわりと、寝台車の窓に、見たこともない赤いトポスが揺れる。クーム自身の目の不調かと思うほど微かだが、眼鏡を外し、再び掛けると、トポスは皺が寄っては伸ばされ、柔らかく大気を彩っていた。ふわふわ、繊細で光沢のあるそれが揺蕩うのに合わせて、ラジオはめくるめく歌った。
……ザザザ……ブザーが鳴ると世界協定時零時です……ザラザラ……
地上には屋根のアンテナ達がシルエットを見せている。その一本がビルの間を、恰も自身の庭であるように散策して、隣の貯水槽へ飛び移った。クームは思わず布団から身体を起こした。細い影は人間のように見える。落書きの棒人間にも見えるそれに、クームは携帯電話を構えるほかなかった。
だが、ズームできない。ピンチインの指が、虚しくカメラの画面を撫でる。
この列車はどこに停まるのだろう、というより、いま、クームが座っているここはどこだろう。マップで現在地を見たいのに、アプリ起動すら難しいのだ。
……ガサガサ……ザザザ……低緯度地域でオーロラが見える場合があります……これには……が含まれます……ザザ……
夜空の不気味な赤みは、次の夜も続き、クームは夕方にアルデンヌの自然公園へ出発して、それを眺めた。夜を照らすだけではなく、夕方と明け方に、それは昼間のように地表を白ませたのだった。
枕元のこれは、もうクームのよく知るモニターではないかのように見える。オーロラに共鳴して、世界中の機械たちの従順な表層が一枚一枚、剥がれてしまったのだろうか。
クームの携帯電話は不調のままだが、天体望遠鏡はあの影を捉えた。オーロラを見物に来たか、二日前と確かに同じ、細すぎる影がまた屋上に立っている。観察していると、細いのではなく身長が高くて、四肢が長すぎるのがわかった。襟足は刈り上げられ、頭頂の髪が風に遊ぶ。顔を見ると年齢はクームと変わらないようだったが、拡大するせいで、影が少し動けば見かけ視界から突如、消えた。アナウンサーの声を借りた何かが、K指数が七に上がったのを告げる。
周波数を合わせ、クームはまたビーコンを蒐め始めた。赤く染色された時空の歪みが、この僅かな音を運ぶのだろうか。クームの部屋に、見知らぬ局が運ばれて来ている。それは人工衛星のCWがすごい速度で近づき、遠ざかるのとは明らかに異なる。霧箱の軌跡が、ふっ、と白く浮かぶのに似ていた。
遠い。見知らぬ異国で誰かが、ツー・トンを入力している気がしたそのとき、しかしその信号はすぐ消えるのだった。
いつしか眠ってしまい、屋根から足音がするので、目が醒めた。身体が重く、そんなに太ったのか、と憂鬱になりかけた時、頭痛に気づいた。
見上げて見ると、作業員たちの声がした。まるで低気圧のほう、雨や風があるほうの嵐でも来たみたいに、UHFアンテナを整備しているか、もしくは付け替えているのだ。大家に、この通信障害は太陽風が弱まれば復旧する、と教えたほうがいいだろうか、とふと思うが、もっと以前から予約していたのかも知れない、とも思う。作業員は二人組で、歳上らしい者が、アマチュア無線は面白いか、学校の好きな科目はなんだ、と話しかけてやっているのが、僅かに聞こえてきて、クームは驚いた。作業員のもう一人は学生のアルバイトなのか。UHFアンテナを大家はテレビのデジタル放送の為に、クームは無線に使っているので、作業員が無線の話題になるのも自然なことだった。
クームは空腹を覚え、着替えを始めた。
「Wi-Fi が使えないんだけど、テレビだけは映るの。ヴォーが復旧したって」
「?」
「スイスで大規模停電っていうのがあったのよ。そちらは無事かしら?」
「はい……無事です」
ベーグルのキッチンカーの主人に、フランス語で息災かを問われ、クームは数日ぶりに、ここがユックルであることを確認した。話好きらしい主人は、航空機が全便欠航していること、アルプスの登山が制限されたことを、テレビが教えたままクームに話した。
クームはカフェラテも頼んで、ほかにもユックル市民のいるベンチに腰掛けてみる。空は青く、オーロラが嘘のようだったが、隣の人々は、何日このままなのかとオランダ語で囁き合って、不安げだった。
日は既に傾いており、鳩は市民の足元を歩いて、パン屑を探した。この大気の底にいれば、通信障害のほかはなんら問題ない。遠心力で大気は赤道のほうへやられ、南極の基地では保護が薄くなっているなか、防護服を一度でも脱げば、破壊された細胞からもう二度と、新しい皮膚が作られなくなるかも知れないのに。鳩はいつもの歩幅で、規則的に、首を振りながら歩いているのだった。
キッチンカーのあった公園を抜けて、不安なまま辿り着いた市民センターのドアは、果たして開いた。二階の市役所と三階の郵便局、四階の図書館に多くの市民が集まるのを見届けたのち、更にエスカレーターを昇れば、最上階のプラネタリウムの扉の前には、短い列ができている。クームはここに、プラネタリウムを観に来たのだ。受け取ったパンフレットには、ケンタウルス座Aを背景に、白抜きで文章が印刷されている。そして銀河自身の直径を遥かに上回る、長いブラックホール・ジェットが回転軸の両側へ、対称に放射されていた。このビームが銀河の形成に少しも関わっていない、ということはないのだろう。
十九時になるすこし前、クームは、まだ照明の点いたままの席で、パンフレットの裏の有名な写真を見つめる。M87の中心にある、巨大ブラックホールの赤い環だ。夏休みが終われば、六年生として授業が始まる。つまり、クームがブラックホールに関心を持つようになって、一年が経とうとしているということだった。
中等教育五年生になる秋に、一人暮らしすることになった。ウィツェというフランドル系の名前、クームというワロン系の苗字をもつ息子を、ブリュッセルは迎え入れるだろうと、フラマン人の母、ワロン人の父は承諾した。少し気まずそうだったのは、心の距離がそのまま、ついに地理に表れてしまうことになるのだから、自然なことだった。でも、その距離がどうして生じたか、ふたりにもその要素の総ては、分析できなかっただろう。
ひとり、あの寝台車で、成人向けコンテンツを見ても男性にしか関心が持てないこと、そしてブラックホールに心を囚われて、ノートの数式にばかり向き合ったこと、先にクームを孤独にしたのはどちらだっただろう。去年九月、クームは編入生である以上に、本当に独りになった。
いつしか席は市民で埋め尽くされ、フランス語の解説員は、穏やかな声で歓迎した。撮影や飲食を牽制し、非常出口を示し、そして薄暗いままのドームに、夕方のユックルの景色を映し出す。まだ扉から、数人の市民が入って来て、息を弾ませた。
「ユックル市民センター、プラネタリウムへようこそ。こんばんは。 七月四日、十九時、ワロン語版の投影が始まります。先ずは、このプラネタリウムの方角から確認してみましょう」
高齢の男性らしい解説員は、投影機を手動で操作し、夕暮れ空に白い矢印を投影した。明らかに光学式投影機の光だ。それが指し示す南の方角には、パノラマ撮影されたであろう森が見える。
「皆さんから見て、正面が南です。南を見ると、ゆるやかな高台の向こうに住宅地と森が広がります。皆さんのお家はありますか?」
すると、すっ、と矢印は左へずれた。
「今度は左です。東、という文字が見えますか? 東には、ブリュッセル中心部の市街地があります。街の灯りが最も強く、夜空は明るく霞んで見えます。 自然豊かなユックルを含め、ブリュッセルの夜には、本当の暗闇はありません。ここでは、夜が更けても、一等星がちらほら見えるだけ……今度は東の反対、西です。見えましたか? ワーテルロー方面、低く開けた地形が続きます。 日が沈むと、空はゆっくりと色を失い、昼から夜へと切り替わります」
お休みなさい、と語りが囁くと、プラネタリウムの白い太陽が、Ouestという文字目掛けて徐々に沈んでいくのが、地上の写真の辺りに重なるくらいで、ちょうどフェードアウトした。注意事項の確認から地続きだったが、ここで客席は完全に暗くなり、非常口の灯りもない。解説は、北極星の位置の確認に入り、そこから七月の夜空の星の見つけ方を詳しく説明し始めた。金星、夏の大三角、見えるのはそのくらいだ。
然し、解説員が観客に掛け声を求めると、それまで静かに眠る準備をしていた市民は、一斉にどよめいた。
「三、二、一……」
驚きと喜びで歓声が上がる。この投影機が映すことのできる、総ての星々だ。
解説は観客たちの嘆息が収まるまで沈黙した。そして、用意していた映像がネット回線に依存しており、再生できないことを静かに伝えた。
「今夜は大三角だけではなく、低い空を見てみましょう。この投影は、二十時に終わります。七月四日二十時、市民センターを出て南のほう見ると、赤い星が目立つはずです」
すると、矢印がにじり寄って、その赤い星を指し示す。
「さそり座α星、アンタレスです。いまから三つの、死を迎えようとしている巨大な星たちを紹介します」
アンタレス、ペテルギウス、イータ・カリーナは、どれも銀河系内にある老齢の星だ。質量放出で表層の物質を逃しており、超新星爆発後は小さな中性子星になる可能性がある。然し、もし質量を残していたなら、ブラックホールとなるとも言われている。
元々搭載されていた星座や、天体写真の図案を、アナログで投影しながら、何らの問題もなく解説は続いていった。
市民センターの屋上から、クームは都市光がまだ夕方であるように上空を照らし、雲の底をくっきり丸見えにしているのを眺めた。西側を見て、それから東側へ回るころ、雲が全天を覆い、角を曲がると、クームは思わず立ち止まり、目を見張った。
「三、二、一……」
驚きと喜びで歓声が上がる。この投影機が映すことのできる、総ての星々だ。
解説は観客たちの嘆息が収まるまで沈黙した。そして、用意していた映像がネット回線に依存しており、再生できないことを静かに伝えた。
「今夜は大三角だけではなく、低い空を見てみましょう。この投影は、二十時に終わります。七月四日二十時、市民センターを出て南のほう見ると、赤い星が目立つはずです」
すると、矢印がにじり寄って、その赤い星を指し示す。
「さそり座α星、アンタレスです。いまから三つの、死を迎えようとしている巨大な星たちを紹介します」
アンタレス、ペテルギウス、イータ・カリーナは、どれも銀河系内にある老齢の星だ。質量放出で表層の物質を逃しており、超新星爆発後は小さな中性子星になる可能性がある。然し、もし質量を残していたなら、ブラックホールとなるとも言われている。
元々搭載されていた星座や、天体写真の図案を、アナログで投影しながら、何らの問題もなく解説は続いていった。
市民センターの屋上から、クームは都市光がまだ夕方であるように上空を照らし、雲の底をくっきり丸見えにしているのを眺めた。西側を見て、それから東側へ回るころ、雲が全天を覆い、角を曲がると、クームは思わず立ち止まり、目を見張った。
その時ふっ、と身体が軽くなり、思考が晴れ、網膜から脳に、黄色い小さなテントの、暖かな光が満ちてゆく。そして忘れもしない、あのシルエットの若者が、街を見おろして風に吹かれていたのだ。
黒い髪の毛先は、テントの光を受け、ところどころ金色になっている。昔脱色したところが、次の散髪ではもう切られてしまうのだろう。振り向くと、若者は金色の小さなピアスを輝かせ、瞳も金色に透けた。
「オーロラ、きょうも見えたな」
クームは偶然を恐れなかった。捕まえた、とさえ思った。探究心のままに隣に寄り添うと、若者の顔はクームの頭一つ以上上空にある。
それは「見たこともない」顔だった。間違いなく、ビルの屋上を跳梁跋扈していたあの影なのに、「誰でもある」ように見えてしまう。手脚の長さはクレオールの黒人、肌は日焼けしたアングロ・インディアン、切れ長の目はフランス華僑のようだった。
「そうですね……星は見えないけど」
「興味あるのか」
「はい……ここで天体望遠鏡を見るには夜景が明るすぎるから、一昨日はアルデンヌまで行きました」
「アルデンヌ?」
「ワロン地域のほう、自然公園があるんです」
その誰でもあり、誰でもない目を、クームは見つめてみる。この感覚は、広大なうみへび座を探す時に似ていた。他の星座との位置関係から、最初のうみへび座の星らしいものを見つけても、どこにあったかを最後の一つを見つけるときまで、憶えていることができないのだ。
「貴方のこと……僕、見かけたことがあるんです。最初のオーロラの夜、貴方が屋上を歩いてるところが見えて」
「……」
「まるで……あの人影が嵐を連れてきたみたいだなんて……」
若者は肩を竦めた。
「俺もその嵐の結果のひとつだ」
「貴方は……」
「俺はリュン・フロワ。EUパスポートにそうあった」
黒い髪の毛先は、テントの光を受け、ところどころ金色になっている。昔脱色したところが、次の散髪ではもう切られてしまうのだろう。振り向くと、若者は金色の小さなピアスを輝かせ、瞳も金色に透けた。
「オーロラ、きょうも見えたな」
クームは偶然を恐れなかった。捕まえた、とさえ思った。探究心のままに隣に寄り添うと、若者の顔はクームの頭一つ以上上空にある。
それは「見たこともない」顔だった。間違いなく、ビルの屋上を跳梁跋扈していたあの影なのに、「誰でもある」ように見えてしまう。手脚の長さはクレオールの黒人、肌は日焼けしたアングロ・インディアン、切れ長の目はフランス華僑のようだった。
「そうですね……星は見えないけど」
「興味あるのか」
「はい……ここで天体望遠鏡を見るには夜景が明るすぎるから、一昨日はアルデンヌまで行きました」
「アルデンヌ?」
「ワロン地域のほう、自然公園があるんです」
その誰でもあり、誰でもない目を、クームは見つめてみる。この感覚は、広大なうみへび座を探す時に似ていた。他の星座との位置関係から、最初のうみへび座の星らしいものを見つけても、どこにあったかを最後の一つを見つけるときまで、憶えていることができないのだ。
「貴方のこと……僕、見かけたことがあるんです。最初のオーロラの夜、貴方が屋上を歩いてるところが見えて」
「……」
「まるで……あの人影が嵐を連れてきたみたいだなんて……」
若者は肩を竦めた。
「俺もその嵐の結果のひとつだ」
「貴方は……」
「俺はリュン・フロワ。EUパスポートにそうあった」
テントに湯を沸かし、リュンはタンブラーにインスタントコーヒーを淹れてくれる。クームは、持っていたベーグルサンドの一つを家主に渡し、自分ももう一つのベーグルサンドを食べた。
「オーロラが最初に現れたあの夜、俺はどこかの屋上にいて、訳もわからず空を見たんだ。GSMはポケットから出てきたのに、磁気嵐で使えないからな。今思い返すとさ。気づいたら知らないところにいた……って日は、全部、太陽風が強い日だった……」
確率分布の話、だろうか。リュンは量子力学のように微笑む、こともなげに、でもどこか弾むように。クームには何を言っているかわからない一方で、頭痛は去り、心地好い眠気が押し寄せていた。ちゃんと夜に眠くなるなんて、磁気嵐が来てからは初めてのことだった。
「シャワーがあるネットカフェで寝ることもあるけど、今夜はテントにした。おかげで、お前に会えたよ」
「ここ、テントなんて張っていいの」
「まさか」
「えっ」
クームは声を顰めながらも、焦りを隠せなかった。
「そっちこそ、どうやって入ったんだよ」
「だって、ドアが開いて……!ここ、プラネタリウムがあるから、屋上にまた誰か来るかも知れない!」
「そうか、それならあすには引っ越さないとな」
テントは二人用なのかも知れない。二メートル近いのではないか、というほどの身長のリュンと、がっしりしているが少し肥満気味でもあるクームとでは、テントはとても狭かった。
「君、モデルみたいだ、緊張するよ」
そう、まるでこの匿名性は、ファッションモデルのそれだった。
「ナンパか」
クスクス笑った後、ふたりの言葉は堰を切った。学校のこと、影響を受けたバンド・デシネ、子供の頃流行ったゲームのこと、まるで久しぶりに会ったように言葉をぶつけ合う。話し疲れて眠ってしまう前、クームは、リュンがベーグルを見て言っていたことを、思い出した。
「なあ、ベーグルの穴ってさ」
「穴?」
「ブリュッセルみたいだな。ベルギーとして独立しなければ、穴じゃなかった。でもベルギー人もベルギー語もないまま国になったから、穴なんだ。これがフランドル」
そう言うとリュンは、ベーグルサンドの上の方の生地を指差した。
「これがワロン」
今度は、下の方の生地を指差して見せる。真ん中で二つに切ったベーグルを、また合わせたような国に、クームたちは暮らしているのだ。その間に、ベルギーらしさのようなものが挟まれて。
誰でもあるようで、誰でもない。それはリュンだけではなく、クームも同じなのだろうか。
「……僕、ブラックホールにすごく興味があるんだ」
「ブラックホール……」
「うん。いま、どうしてこんなに体積のない存在に注目してしまうのか、わかってきた気がするよ」
ベルギー人だけじゃなく、ゲイにも体積はないかも、と、クームは言わないでおいた。明日はこの少年を、クームのあの寝台車に招くつもりだったから、そしてただの基地の仲間でいられる日々は、限られていると思ったから。