「和風」な髪型というと、あの花嫁の角隠しの下の髪型がまず連想されます。ポンパドールのような「前髪」、左右に張り出したふたつの「鬢」(びん)、うなじに垂れる「髱」(たぼ)、そして頭上の「髷」(まげ)の膨らみからなる日本髪です
しかし漫画や時代劇など思い出すと、それだけが女性の日本髪ではありません。実は女性の髪型は、平安のような「垂髪」を基本としていて、頭の上になにもない時代のほうが続いていたのではないでしょうか
歴史が始まったのが古墳時代末期の西暦500年頃とすると、「日本史」という時代は、単純には現代までおよそ1500年間です。遊女が兵庫髷を結うことは室町時代からありましたが、江戸時代初期の寛永年間に、貴賎を問わず流行し、女性が日常的に髷を結うようになりました。しかし女性が垂髪にしなかった時代は、大正時代ごろまで、大体300年ほどしか続いていないのです
女性は世界中どの国でも、外出をしないか、外出時にはベールや帽子など、被り物をするのが理想です。被衣(かつぎ)を頭から被ったり、笠を被ってそこからぐるりと布を巡らせ、垂らしたりしました。顔ごと覆い隠してしまうので、髪飾りや髷の発展が遅れ、垂髪が基本だったわけです
わたしたちが晴れの日に目にするような日本髪は、江戸時代の1650年前後に、覆面が禁じられて以降、次第に被り物の規制が強くなるにつれ、大きく花開いたというのが通説です。江戸時代は女性が無帽の素顔で出歩くのが推奨された、世界的にも奇妙な時代だったようです
ヘアスタイルにこだわるといえば女性のイメージですが、歴史的には髪を様々に結うのは男性のほうといえるかもしれません
男性の髷は、古墳時代には冠のなかに髪を纏めるための「髻」(もとどり)というひとつのお団子として始まっています
平安や室町時代の貴族の幼い男児は、「元結」というローポニテもしくはポニーテールでした。元服すると、それが「冠下」というバカ殿様のような髷となり、烏帽子に収まるのです。武士や庶民は烏帽子の後ろから出して、束を垂らし、ポニーテールのままにすることもありました
武士は頭頂を剃り、月代というあの特徴的ハゲを作るようになったのですが、室町時代には髷はその月代のほうへ倒されるようになり、「丁髷」(ちょんまげ)となりました。丁髷は江戸時代まで続きます
るろうに剣心の薫は、まさに男装家なのです。髷は男性の髪型だと知った後では、リボンではポニーテールの「雄々しさ」を隠し切れていないと感じられ、どうして弥彦があんなに「ブス」と呼ぶのか、なんとなく感覚が掴めてきます
雄々しいのに女性の髪型として誤解されやすいものには、髷のほかに鬟(みずら)もあります
ヤマトタケルのような、髪を真ん中で分け、おさげにし、それを耳の手前で大きなお団子にする髪型が、「鬟」(みずら)です
鬟は、まるで現代のチャイナ服のお団子のようなので、愛らしい髪型と勘違いされていますが、元は益荒男の、マッチョな髪型です。仏像の強そうな童子も、よく鬟を結っています
平安時代には貴族の幼い男児だけの髪型となり、それも次第に元結にとって変わられます。日本では、男性の髪型としても女性の髪型としても、おさげ及びふたつのお団子は、中世にはなくなりました
女性も古墳時代や奈良時代にはハーフツインテを結ったり、ふたつのお団子を作ったりしていたようですが、再び髪をふたつに束ねるようになるのは、戦時中の三つ編みまで、1200年ほどの空白がありました。編まないおさげは、ヘアゴムの普及した昭和中期以降に発展し、恐らくわたしたちの親の世代から流行したようです
以上よりこちらのほうがわかりやすいです
https://www.phantaporta.com/2018/01/mage.html?m=1
最後に話をややこしくしますが、もし縄文のような新石器時代から日本という国はあった、という考え方のひとがいたら、そのひとにとっては垂髪のほうが一時的な流行だった、ということになります。とても永くゆったりと続いた新石器時代には、女性もふたつお団子を作ったり潰し島田のような髷を結ったりしていたからです。でもその時代を創作するひとはあまりいないと考え、よく時代劇となるところだけを上述することにしました