偶数に整えられキャラクターが“商品化”される瞬間








ある繪師のプロフィールに、聞いたことのない種類の「地雷」が記されていました。
それは、特定の組織の中で自身が贔屓しているカップリング(以下カプ)丈でなく、その組織の他の構成員たちも、それぞれ都合よく誰かとカプにして「綺麗に組ませる」こと――つまり、組織内で偶数に分けるように、カプをくっつけて配置すること――に對しての嫌惡でした。

たとえば暗殺チームを例に取るならば、リゾプロ、ギアメロ、ホルイル、ソルジェラがよく見られるカプとして並んでいます。こうした構造は一般によく見られるもので、わたくしも當初はそれが何故不快なのか、すぐには呑み込めませんでした。

然し最近、東リベ二次創作において「副隊長會」なるものを捏造している繪師を見かけ、氣持ちが惡くなってしまいました。 そして初めて、その「組織内で全員を綺麗にカップリングする」という地雷を、おのれの身に引き受けることとなったのです。 
隊長たちによる幹部會議であれば、マイキーを慕う者たちがそれぞれの意思で集まっているという背景があります。しかし、副隊長という立場の者たちは、それぞれ別の隊長に惚れ込み、付き従っている存在であり、副隊長同士は本来、赤の他人です。
それを都合よくくっつけて関係性をでっちあげることは、譬えるならば――

飲食店の店主がカウンターの客同士を話させること

に似ています。この店から人の輪を繋げたい、と口では云いますが、店主はモテる己を演出したい丈なのです。それが若し水商賣のスナックのような店で、客もそうしたおしゃべりを目的にしているなら分かります。スナックで仲間外れは作るべきではありません。ですが昼間の店の、美味しい料理に惹かれて輯まった客たちは、本来無関係の他人です。

こんなこともありました。以前、腐女子でもないのにわたくしにしつこく付き纏っていた女に彼氏ができたときのことでした。女は彼氏と手を繋ぎながら、反對の手でわたくしとも手を繋ごうとしてきました。彼氏とわたくしの人格抜きに、お気に入りを陳列するセクハラです。その被害の経験があったので、店主の目論見もわかるのです。
キャラクター自身が勝手に動く、つまりポスト構造主義のいう「生成」された創作のやり方ではなく、作者に支配され道具として動かされていれば、その創作は受け手にとって不快であるものです。人権的に〈物〉扱いとよぶのは生々しいので、「層化」と云う概念を提案します。暗殺チームなら、リゾプロとホルイル以外原作で絡みがあるのでまだましですが、副隊長會は末っ子同盟以外絡みがないので、一括りにするのは層化と表現できます。 
これは顏カプへの嫌悪ではありません。接點がなくとも、背景や精神的に似通ったテーマがあったり、その上で正反対だったりと、関係性が生じるのを止められなかったリアリティのあるカプは、「生成」によるものであることが伝わります。戦後民主主義の個性の神話、つまり個性はぶつかるものであり、クリエイターとはほかの個性を屈服させ、素材や道具を支配するしかないのだ、と作者が捉えているかどうかは、顏カプかどうかにはあまり関係がないのです。

話が飛びまくってすみませんが、男性がイケメンを、女性が美人を嫌うことがあるのが本當に嫉妬なのか、について書きます。
筆者はコミッションで『少女レイ』のパロディを頼まれた時、百合を地雷として断ったことがありました。BLにはハゲやデブ、ブスが有り得ますが、百合は美女しかいないので、界隈に人の心と云うものが欠如していると考えたからです。然しその後シュール系のアニメを代表する『少女革命ウテナ』を観て、キャラクターが作者の思惑を超えて勝手に生成されたものであるなら、美女同士の百合も苦手ではないと感じました。筆者が嫌だったのは、みきとPやファンに、ボーカロイドという美少女の一人称を「僕」にして歌わせ、汚いおっさんは自身の作曲を歌うべきではなく、さらには女に生まれていたら人生イージーモードだった、という差別が価値として共有されているからでした。歌われている百合カップルが、その頭で考え過ぎの差別の思惑通りになっている、と感じたのです。
イケメンや美人は、それを見る者が主體であり、イケメンや美人自身は見られているだけです。自ら主體性の認められていない立場になろうとするイケメンや美人への怒りは、羨望や嫉妬とは異なります。そして、他者の主體性を認めないことに、キャラ萌えのオタクがキモがられる理由もあるのです。
カプ厨が嫌悪されるのは、他者同士の関係を捏造せず、現実の人間関係の中で、相手を自律した他者として扱っているかどうかが、物語の中でも表れてしまうからではないでしょうか。ちゃんと生成されたカプなのに、單にホモがキモいという男は放っておくとしても、耳を貸すべき部分もあります。