「科學史」という記事で、人文學のひとの拭えない科學コンプレックスを描写しました。
けれどそもそも人文學とはなんなのか、「人」という文字があまりに広い範囲を思わせ、さっぱりわからないといえばそうなので、一度確認してみたいと思います。
理系のひとびとは、歴史、芸術、哲學などの文系の分野のことを、「人文學」と呼びます
例えば「自然科學館のフリーマーケットですが人文學のひとも楽しめます」というように、現代日本ではほとんど人文學は「文系」という意味として用いる言葉でしょう。
人文学のひとのほとんどが、なんらかのかたちで〈文化〉を研究しているのではないでしょうか。なのでほとんど文化の記事となりそうのですが、絵を描く暗にとって興味があるのは、科學的にはヒトの視覚というのは同じ仕組みで機能しているはずなのに、文化的には太陽が赤かったり黄色かったり、緑色が綺麗な色とされたり不氣味な色とされたりと、ものごとが違う見え方をすることです。
科學的には同じ鱗翅目でも、人間にとつてきれいなものは蝶で、キモいものが蛾とされるように、異文化間だけでなく同じ文化のなかの、時と場合によっても違つてきますが、いずれにせよ、「蝶」と「蛾」のように、異なる名前があると違って見えるので、文化は「ことば」が重要な鍵となるでしよう。
日本語が受け継がれてきたように、世代を超えるのは文化のひとつの定義です。けれど「蟲+虫」という記事で、ゴキブリを飼うひとは昆蟲食をすると書きましたが、それは直接親から言われたわけではないと思います。遠く離れた、赤の他人同士なのに、どういうわけかゴキブリストは共通してイナゴやコオロギを食べるようになっているのです。それまで会ったことがない同世代の者同士でも、同じ文化をもつことがあります。
科學的には偏見や先入観、差別などはないのが理想ですが、人文學はその偏見を、なるべく偏見なしに研究するものといえます。
人文學である歴史が、科學と言われているのを聞いたことがあるひともいるのではないでしようか。それは、過去の事實を、古文書、芸術作品、遺跡、伝承などの証拠で示すという客観性が、科學に共通するからです
偏見を偏見なしに研究するとはややこしいですが、人文學は、自分たち研究者がみな、色の見え方から既にその民族、社会層の偏見にまみれていると知つているという点では、かえつて宗教を研究しているひとでも客観的といえるでしよう。
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歴史はじめ、人文學のことを科學と呼ぶときひとつ注意したいのは、これを精神分析と混同してしまう研究者が、プロの中にさえ本当に多いという現状のことです。人文學部には、心理學をやりにきたつもりのひとばかり在籍しています。
例えば川は、人文學では生命や竜などのことですが、精神分析では時間の流れやものごとの進行を意味します。起きて、偏見を通じて世の中を見ている時は、川は竜であり、夢の中で、偏見をなくしているときは、川は時間となるのです。
このように人文學と心理學はまったく別の分野なのに、文化は集合無意識からきたものだなどという教授がとても多いのは、そのひとが嫌われるばかりでなくゼミの學生にも迷惑なことです。
恐らくフロイトやユングは逆に人文學に劣等感があり、憧れています。そしてニーチエのようなスピリチヤルな哲学者もいます。こうしたひとびとのせいでややこしいですが、人文學は占いではありません。