バフォメットの腸内で

クロソウスキーの『バフオメツト』を開くと、まずプロローグで、中世の騎士團の騎士と盾持ちの關係、すなわち衆道が濃密に描かれています。
章が進むと、ベルニーニの彫刻『聖テレサの法悦』で有名な聖女テレジアが、時空と肉體を超えて、美しい小姓の肛門から吹き込まれました。小姓は元々中性的顏立ちで髪が長かつた上に、乳房が膨らむこととなります。小姓がサーカスで1頭の大食蟻獣(おおありくい)を買い、それに跨つて、騎士團の晩餐後の余興に現れる場面があるのですが、その大食蟻獣にもまた、曽て教皇と激しい神學論争を繰り広げた人物、フリードリヒ2世が宿つていて、人間と話すことができました。余興では、大食蟻獣は神秘主義のように、十字架に唾します。解説によると、フリードリヒ2世はフリードリヒ・ヴイルヘルム・ニーチエのことを思い起こさせるようになつているそうです。
















誰でも「あんなのとはちがう」と云う論調でこだわりを語るものです。繪を描くひとの投稿でも、「絵柄が不安定すぎる」「私らしくない」と云う言葉を數多見かけます。暗が初めてバフオメツトの譯者解説を讀んだとき、ボコボコと、自身ではない誰かの顏が内面から浮かび上がつて、いまにも皮膚が變形しそうなので、思わず怯んでしまいました。ですがいつか大怪我をして輸血や臓器移植等を受けるかも知れず、そんな劇的なことがなかつたとしても、毎日色々な人間の大腸菌と共に生活して居るのですから、そのようなことも云つて居られません。バフオメツトを讀むうち、この「自分のなかに自分ひとりしかいない」という潔癖が、「一神教」だと見えてきました。

クロソウスキーは福音を告げます。霊には元々個性がなく、死後はまたみんなで混ざり合つてしまうのだから、最後の審判は開廷しようがない、という、新約を超える福音です。

何故、これまでニーチエのような有名なひとの著作を讀まなかつたかといえば、「俺無神論者だから」と云うありふれた日本人が、實のところラテン語やサンスクリット語ができず、神学やインド哲學、禅も丸でわからず、聖職者より偏差値も収入もないルサンチマンだからでした。
今囘バフオメツトを讀んだだけですが、哲學には、一神教のほか、多神教、汎神論、ゼロ神論、實在論そして無神論があり、このような多様性が仲良く併存していること自體、ただの机上のものだと、哲學者が冷笑している氣がします。先述の、本気で自分は無神論を極めているという日本人と違い、神学含む哲學者は、論理のマジツクシヨウとして弁えた態度を取つているのでしよう。

一度蟲嫌いを完全に克服し、これからGを飼おうというわたくしに取り、差別思想を自己切開するのは面白いことです。然しここで引つ掛かるのは、クロソウスキーはその小姓に自己投影していなくて、あくまで魅惑のセツクスアイコンと自分も融合したい、という書き方をしている點です。そんなに融合したいのなら、サド侯爵のように自身がネコであってもいいのではないでしようか。他人には、おまえのなかになん人もいると説法しながら、従来通りのシスヘテロ制度の内側に過ぎないように見えます。美女や美少年を対象化するばかりで、なぜドゥルーズに絶賛されたのか、女性としては理解しかねるところです。
ですから、この記事は諸姉にクロソウスキーをお勧めするものではないのです。クロソウスキーは本當に、誰にも真似できない鬼才で、わたくしは今後とも古本を漁るつもりですが、矢張り、その人間を氣に入るほどネコとして思い描きたがる腐女子なのです。