学者

わたしは学生のとき、学問上の正論に夢中になった教授たちが、我を(じぶんの年齢や立場を)忘れ、ただの学生を泣いても吊し上げている現場を見たことがあります


それはわたしが3年生のときの卒論の報告会でした
4年生が自身の卒論の要約を話す場です。そのあとの質疑の時間で、教授たちが「その研究にはどんな根拠があるんだ」「一次資料から確認したのか」とおなじような質疑を、しつこく、つぎつぎ浴びせていたのです


大学生を経験したことがないひとには想像しにくいかもしれないのですが、大学の(とくにわたしがいたような文学部などののんびりした学部の)教授というのは、授業中雑談しかしません。「教える」ということがなかなかないのです
「一次資料」の探しかたももちろん教えませんし、ゼミ(卒論のための授業)に一次資料がどんなものなのか、じっさいに例を示して見せてくれることもありません


そんな教授たちが、その日だけおもいがけず豹変したさまは、まるで小学校の女子の学級委員が男子をやり込めるかのような剣幕で、それが50代、60代のからだにまったく見あっておらず、とても不気味でした。4年生たち当人は目や鼻を赤くして、震えていました




一次資料。わたしたちがふだん触れることができる情報はほとんど使い古された又聞きですが、その情報のおおもととなる情報が、一次資料とよばれます
学問はその信用を守るため、なるべく一次資料か、それに極めて迫るような資料をもとに研究をしていく必要があるのです


それは確かにそうです。そしてその選定と収集は自身で行わなければいけません
大学教授は教育者というより、学者としての面もつよく、授業より学者としての研究を重視するからです。頼っていてははじまらないわけです

なのでその日、教授たちは一学者に立ち返って、学生のことも子ども扱いせず、おなじ学者(の卵)として堂々と接しようとしてくれたのかもしれません



ですがそれがどんなに正しい態度でも、わたしは、やはり吊し上げるやり方はどうかとおもいますし、実は執拗な質疑を受けていたのは、家柄のあまりよくない准教授のゼミ生だけでした。正しいとおもうなら、目上の教授のゼミ生にも、おなじ公正さで迫って見せてほしかったのです



わたしはそのとき、そういえなかったことを悔やみました。「茶番はやめろ」と立ち上がって抗議したかった。しかし、その後全校のまえでスピーチする機会があったので、あの日居合わせた教授たちを名指しで糾弾することができました

彼らの度胆を抜かれた顔を見られてほんとうによかったですし、実際、その後の卒論の報告会では茶番は繰り返されませんでした
それでもあの日の4年生たちは、じぶんの研究が認められなかったことをずっとコンプレックスにおもって、卒業後も生きていくのだとおもうと、やはりやるせないものが残ります





こうした事情は、どの大学でもおなじではないかとおもいます
もし、正論を浴びせかけられ、みんなのまえで泣かされたことがあるひとがいれば、どうか自身だけを責めないでほしいとおもいます
教授のやっている質疑の内容自体は正論だったとしても、目下のゼミの学生にしか質疑できないのに勝ち誇るなんて、最低なのです