これは人形作家・清水真理の人形です
http://hifructose.com/2017/12/20/mari-shimizus-dolls-carry-absorbing-scenes/
怖がらず彼女たちの体内に入ってみてほしいとおもいます。世界観に陥ってほしいです
そのあとで、以下のインタビュー記事の引用を見てみてください
THの No.52に掲載されていたものです
“私が人形作家になろうと思ったのは、十八くらいのときに、不幸な子どもたちの霊を供養するために人形を作ろうって思ったのが最初なんですよ”
“私は子どもの頃ってわりと不幸だった記憶が多いんですが、実際私の親戚筋にもそういう人が多くいました。両親が離婚したり孤児院育ちだったりとか。不幸な子どもたちの霊というのは不幸な人のところに集まりやすいと、何かで見聞きしまして”
“私の人形作品は、入れ子のシリーズになってからは、一体の人形の中に割りとたくさんの顔が詰め込まれているんですよ”
“私のなかで、とにかくたくさん作ればたくさん供養ができるっていう気持ちが強いからなんです”
“不思議なことに、人形を作り始めるようになってから、あまり霊というものを見なくなったんです。だからこれからも、子どもたちの霊が遊べるようなものをイメージのなかでよりリアルにしていって、私なりの形で供養していきたいんですよ。その気持ちは、ずっと変わらないと思います”
冒頭では、わたしが、なにかアングラな作品を見せて怖がらせようとしている、とおもったでしょうか。確かにアングラを鼻にかけ、怖さと妖艶さを作風とした人形作家はたくさんいるとおもいます
しかしこの記事を読めば、明らかに清水氏には怖がらせる目的がないということに、気づくはずです。それどころか作品はどこまでも慈しみに満ちているように見えます
「感じかたはひとそれぞれだ。作品がすべてを語っている。だから解説やインタビューを読むのは興醒めなことだ」
そんな考え方はおおくのひとのなかに根付いてしまっているとおもいますが、しかし作家のことをしることで、感想が深まることは、おおいにありうることではないでしょうか
きょういいたいのはそのことです
ただし、たとえば美術館で、作品を見るまえにキャプションを熟読してしまうと、なにも感じなくなってしまうように、知識が邪魔になることがあるのも、確かです
でも、そのまえに作品の世界観に慣れ親しんで、自身のなかで物語ができあがっているならば、あとからやってきた知識を物語のなかでどう捉えるか、すぐに判断でき、邪魔にはならないはずです
http://hifructose.com/2017/12/20/mari-shimizus-dolls-carry-absorbing-scenes/
怖がらず彼女たちの体内に入ってみてほしいとおもいます。世界観に陥ってほしいです
そのあとで、以下のインタビュー記事の引用を見てみてください
THの No.52に掲載されていたものです
“私が人形作家になろうと思ったのは、十八くらいのときに、不幸な子どもたちの霊を供養するために人形を作ろうって思ったのが最初なんですよ”
“私は子どもの頃ってわりと不幸だった記憶が多いんですが、実際私の親戚筋にもそういう人が多くいました。両親が離婚したり孤児院育ちだったりとか。不幸な子どもたちの霊というのは不幸な人のところに集まりやすいと、何かで見聞きしまして”
“私の人形作品は、入れ子のシリーズになってからは、一体の人形の中に割りとたくさんの顔が詰め込まれているんですよ”
“私のなかで、とにかくたくさん作ればたくさん供養ができるっていう気持ちが強いからなんです”
“不思議なことに、人形を作り始めるようになってから、あまり霊というものを見なくなったんです。だからこれからも、子どもたちの霊が遊べるようなものをイメージのなかでよりリアルにしていって、私なりの形で供養していきたいんですよ。その気持ちは、ずっと変わらないと思います”
冒頭では、わたしが、なにかアングラな作品を見せて怖がらせようとしている、とおもったでしょうか。確かにアングラを鼻にかけ、怖さと妖艶さを作風とした人形作家はたくさんいるとおもいます
しかしこの記事を読めば、明らかに清水氏には怖がらせる目的がないということに、気づくはずです。それどころか作品はどこまでも慈しみに満ちているように見えます
「感じかたはひとそれぞれだ。作品がすべてを語っている。だから解説やインタビューを読むのは興醒めなことだ」
そんな考え方はおおくのひとのなかに根付いてしまっているとおもいますが、しかし作家のことをしることで、感想が深まることは、おおいにありうることではないでしょうか
きょういいたいのはそのことです
ただし、たとえば美術館で、作品を見るまえにキャプションを熟読してしまうと、なにも感じなくなってしまうように、知識が邪魔になることがあるのも、確かです
でも、そのまえに作品の世界観に慣れ親しんで、自身のなかで物語ができあがっているならば、あとからやってきた知識を物語のなかでどう捉えるか、すぐに判断でき、邪魔にはならないはずです