いい子のまえにしか現れない梯子

学生時代には、いい成績を取るために生きるという、梯子が敷いてあって、そのとおりにがんばって登っていれば前進している実感がもてるものだ、とひとはいいます。しかし、登り詰めて得られるものはなにもない、と。卒業してしまえば、そのさきには登りも下りもなにもない、虚ろの世界が広がっており、自身で道を作らなければならないことに気づくのだ、と



でもわたしにとっては、学生のころから(いえ、おそらくはそれよりももっと以前から)、世界は虚ろでした。登っていくべき場所などないと、気づいていました


そのためか成績のわるい子をからかったりいじめたりする発想はなかったですし、学校の花方だからといって、バスのなかで文化部の連中を座らせずに立たせたり、荷物を持たせたりする運動部の生徒たちの思想を、いっさい理解できませんでした




さて、「迷惑」という記事で書いたかんがえかただと、まるで、だれかが認識しなければ世界は存在しない、といっているかのようですが、わたしはその認識さえもあまり信じていません



Cogito ergo sum


哲学の講義では、その論理を理解したうえでテストでもかなりの点を取ることができましたが、うえのことばを、じぶん自身のこととして実感したことは、いっさいないんです




しかしわたしは哲学的な理屈を捏ねて、人生から逃避しているつもりはないです。どこにも就職する努力をしないことの言い訳のために、わざわざ難しいことをかんがえているわけではないんです

単純に、「この世」や「生」が確証できないものである以上どうしていいものか、生きる意味も自殺する意味もまったく見出だせない、ということです