オタクにしてもマニアにしても、サブカルの人間に接するとき必要なのは、お前よりはまともと勝ち逃げしているととられない樣、こちらも相手とも同じくらいかそれ以上キモいのだという勢いを見せることです。
行形キャラについて発情した旨から書き始めるのは、却って腐女子の礼儀なので、逆に考えると、先ず挨拶して了う者は腐女子ではないと分かります。dm内では挨拶がないと不安ですが、ただのソーシャルメディアのリプや支部の作品コメントに「初めまして」とあると、基本的には掲示板のノリが慾しいので、返事をしていません。挨拶する者のプロフィールを見ると、矢張り夢や男女カプの小説しか投稿していないものです。腐女子と繪師とはほとんど同じものなのかもしれません。というのも、繪が描けないからキャラに戀できるのです。繪師でなければくれくれと看做されてもおかしくありません。夢女は挨拶などして關係をもとうとするのは控えるのが無難と云えます。
支部に鵜堂刃衛の漫画を投稿したところ、夢女から「初めまして。もう30年以上推しは刃衛さんです」と云うおばさん構文のコメがついたことがあります。繪は描けないけど先輩なのよ、という本音が出て了っていて、且に「ご挨拶だな」と云うところです。
さて、暗は無愛想な雪深い里山の出身です。そのせいか、挨拶というものについて雪の降らない出身の人間とは異なる考え方がある樣です。里山では笑顔で「こんにちは」などという者は、セールスか宗教勧誘だとされます。挨拶をすると仲良くなれるのではなく、永遠に仲間になれない場合があるのです。
暗は岩手縣とは縁がありませんが、『風の又三郎』は、轉校生の解像度が繊細なほど高い名作です。札幌から岩手縣の山村の小學校に轉校して來た三郎が、校門で「おはよう」と云って走り去り、周りの子供たちは「おはよう」など云つたことがないので、驚いて照れる許りだったという場面が有ります。挨拶が「知らない子」の描寫のひとつとなっている譯です。
想い當るのは、江戸研究家杉浦日向子先生の、挨拶は威嚇だと云うエッセーです。百万都市江戸では、互いの話し声も食べる物も筒抜けの長屋で、お前は身内ではないと示す爲、隣人達に元気に挨拶を吠える習慣がありました。日本人は全体主義ではありませんでした。狭い都会で、廊下や目的のある部屋もなく、互いに頼りない障子や衝立許りで隔てられた日本人は、それ程までに他人に興味がないのです。
なにが云いたいかというと、挨拶は美徳よりは單なる手段のひとつなのです。「挨拶は正義」という論調で迫るのは自身が寂しい人間であることを示します。本當は相手に楽しく過ごして笑ってほしいだけなのに、態々「ちゃんと挨拶しろ」「暗い」「生き残れない」などの云い方をしがちです。道徳で勝利し、最後の獨りになるまで勝ち残って、焼け野原に取り残されるのは、老女や専業主婦によくある傾向ですが、男性にも偶にみられ、男性が女性に愛想を強要するときにはジェンハラの発想が根底にあるでしょう。特に酷いのは娘が1番上に生まれた男性で、却って女性に、料理はできるか、結婚しないのか、と云う権利があると誤解して居ます。親だからと云うなら、その女性が子供を産めるのだ、とこちらも男性蔑視するしかなくなってしまいます。男性である自身は、死ぬ気でお腹を痛めてその娘さんを産んでいないので、勿論母親も娘に家事をしろという権利はないのですが、父親にもありません。
なにが云いたいかというと、挨拶は美徳よりは單なる手段のひとつなのです。「挨拶は正義」という論調で迫るのは自身が寂しい人間であることを示します。本當は相手に楽しく過ごして笑ってほしいだけなのに、態々「ちゃんと挨拶しろ」「暗い」「生き残れない」などの云い方をしがちです。道徳で勝利し、最後の獨りになるまで勝ち残って、焼け野原に取り残されるのは、老女や専業主婦によくある傾向ですが、男性にも偶にみられ、男性が女性に愛想を強要するときにはジェンハラの発想が根底にあるでしょう。特に酷いのは娘が1番上に生まれた男性で、却って女性に、料理はできるか、結婚しないのか、と云う権利があると誤解して居ます。親だからと云うなら、その女性が子供を産めるのだ、とこちらも男性蔑視するしかなくなってしまいます。男性である自身は、死ぬ気でお腹を痛めてその娘さんを産んでいないので、勿論母親も娘に家事をしろという権利はないのですが、父親にもありません。