「極めて何か生命への侮辱を感じます」
一方で、監督がしばしば叱責する映像が拡散され、ミームのように消費されてきた経緯を思い返すと、そこにはまた別の物語が潜んでいる気がします。
AIへの発言をめぐる宮崎監督の振る舞いを見ていると、まるで「人体の不思議展」を批判する人々のように、普遍的な“個人の尊厳”から語っているわけではないのだと感じられます。もし監督が本当に普遍的な倫理からAIを語っていたなら、児童であるさつきが母性を押し付けられ、手早く弁当を作るシーンはなんだったのか、また『海がきこえる』的なフェミニズムに対して激昂する理由の説明がつきません。そこには普遍ではなく、“母子像の神話”が濃く滲んでいます。
AIへの反応の感情の揺らぎも、対象そのものというより、その神話が踏みにじられたことへの痛みに近いのです。「身体障害者の友人」が尊いのは、母親が腹を痛めて産んだから、という本音はないでしょうか。その母親の人格が見当たらないのです。出産の痛みを神格化する倫理観は、歴史的な致死率や社会的な価値づけのなかで形成されたものです。でも、生物学の景色に目を向ければ、母性の物語に寄りかからない営みは無数にあります。乾いた土にそっと卵を置いていくトカゲや、孵化した瞬間から独り立ちする蝶の幼生たち、生命とって繁殖はただの戦略であって、痛みも献身も、そもそも必要としない生命もいる。自然の透明な事実に触れたとき、「母がお腹を痛めて産んだ子だから尊い」という考えそのものが、生命の多様性から逸脱した“物語の暴走”のほうに見えてきます。役割も、犠牲も付与されない存在は、かえって生命の自由そのもののように静かに佇んでいる。
一方で、監督がしばしば叱責する映像が拡散され、ミームのように消費されてきた経緯を思い返すと、そこにはまた別の物語が潜んでいる気がします。
「描けよ! 何も考えないで生きてるのか? ダメなら降ろす」──こうした叱責は、才能やキャリアとは無関係に、人を“個人”ではなく“機能”として扱う構造のなかで生まれる姿です。母という役割に個人を閉じ込めるのと同じ力学が、部下という役割にも働き、その役割化はしばしば暴力に変わります。
もしかすると監督の語る「生命」や「尊厳」といった言葉は、普遍的な倫理というより、監督自身が美しいと信じる“役割を果たす生命”にだけ向けられていたのかもしれません。そこに宿る矛盾は、個人の欠陥というより人間が物語で世界を理解しようとする限り避けられないのでしょう。
もしかすると監督の語る「生命」や「尊厳」といった言葉は、普遍的な倫理というより、監督自身が美しいと信じる“役割を果たす生命”にだけ向けられていたのかもしれません。そこに宿る矛盾は、個人の欠陥というより人間が物語で世界を理解しようとする限り避けられないのでしょう。