シニフィアン
シニフィアンとは、記號の音やかたちのことなので、詰まり一般に云う「記號」のことでしょう。
漫畫のセリフ、冷や汗、集中線等を記號と呼ぶのは比較的わかりやすいですが、それ以外の人物や背景等全部の表現も、實は記號なので認識が可能と爲っている、と云うのが記號論の發想です。デフォルメと似た使い方ができます。文化は慣れだと云いますが、これは記號と云う偏見を學ぶことでしょう。
記號論には人生哲學としての主義主張と云う性質はなく、ただ夛様な信念をもつ人々が美術のことを話すとき、シニフィアンと云う語だけを特に他意なく用いるのです。シニフィエ
シニフィエとは、シニフィアンの指す意味のことです。
シニフィアンとシニフィエを合わせてシーニュ:Sign と云うこともあるのですが、殆ど「シニフィアン」のみ使われます。シニフィアンとシニフィエは、何方が何方か譯がわからなくなるのですが、『TH叢書』等で「シニフィアン」のみ頻出するのを何度か目撃すれば、憶えることが出来ました。
ontischen:存在的
『存在と時間』における存在論において、存在的なものとは、ハンマーに對する釘の樣なものだとウィキペディアにあります。存在とは何かということ無しに存在できると云うことです。
記號論は信念ではないのですが、「存在的」と後述の「存在論的」と云う語を使うことで、筆者の最も興味のあるものが美術よりは哲學に傾倒していることが表されます。
ontologish:存在論的
存在的なものに對する存在論的なものとは、釘に對するハンマーの樣なもので、釘ありきで存在すると云うことです。
存在論の用語はシニフィアン/シニフィエと異なり何故か片仮名では表記されないのが難點で、ローマ字でも表記揺れが激しく憶えにくいのは確かです。ハイデガーの母語では存在的/存在論的はontishen/ontologish:オンティッシェン/オントロギッシュ、英語ではontic/ontologic:オンティック/オントロジックです。
さて、ここからは蛇足ですが、初めて後者の2語を見かけたのは、『TH』で讀んだショタについての記事でした。子どもを産むか美人でなければ存在し得ない女性と云うものが、ボーイズラブを好むのは、異性愛の世界観では存在的な男性と云うものを、ボーイズラブにおいて存在論的に見ることで、癒されるからだと云うのです。その記事では、男性が寶塚を忌み嫌うのは、男性が没個性の美男子となっているのが耐えられないのだと説明されました。
そしてショタは、個性的だが子どもを産めない存在的なもの、美形の枠に嵌められ性的に見られる存在論的なもの、双方が感情移入し得ると云うのです。
若し男性が寶塚を見ると吐き氣を催し、それが美男子への嫉妬ではなく單にキモいからということならば、女性が少年漫畫のヒロインを厭うのも嫉妬ではない、と信じて呉れても良さそうなものです。
ですが人権問題では餘りに生々しく、嫉妬だと云う誤解も付き纏って胃を痛めるので、暗は學生のときフェミの用語「主體」ではなく、ハイデガーの用語「存在」を用いて哲學の視點で考えるのも良いのかも知れないと感じました。男子はマナーを煩くされず、女子は一律に礼儀正しい性格と言動しか認められないと気づくのは、そのフェミがハイデガーを読まない小さな頃から存在論を理解していたということであり、人権を論じたいのではなく哲學が愉しいのだというのが真相ではないでしょうか。
いまでも、赤ん坊を育てられないとき、男性がヤリ捨て自由で、女性だけが犯罪者とされることを、何うにかし度い氣持に變わりはないのですが、それは性別の無い哲學か唯物的な立場を貫くうち、フェミの問題の視點そのものが間違っていたと解り、解消されるものと信じて居ます。