『閨房の哲學』は矢張り讀むのが辛く、休み休み、日數をかけて讀破しようと試みています。主人公ドルマンセ:サド侯爵の主張は屹然たる反道德なので、なかなか頁を捲ることができません。こんなものを讀みながら電車に揺られては譲り合いの精神がなくなります。
ドルマンセは、道德とは、自身がされたら嫌なことを他人にしないと云う丈の脅迫だと、はっきり云い切るのです。確かに、道德や法律は自身が殺されたくない丈の、消極的でウジウジした、予防線そのものでしかなく、圖星を突かれるからこそとても辛いのです。
なんとか後半まで讀み進めてみて、子どもの頃から知っていたことを想い出すことができました。それは自由を求めることは脅迫ではないという一筋の光です。ドルマンセの主張は全くその通りではありますが、我々が殺人をしない理由は正義感や好意由来のこと丈ではないのです。屋根の職人を狙撃したり、娼婦を鞭打ったりすることは、相手の自由を阻害するので認められません。電車での譲り合いのマナーも、他者の自由を守ることなのです。其れに辿り着いてからは、フィクションとして爆笑し乍ら讀めば良かったのだと理解しました。
唯物思想とは命を大事にしないことだ、と分かりやすく教唆して呉れたサド侯爵には感謝に堪えず、暗の中で最も愛すべき作家となりました。特に目を開かれたことを2點書き留めて見ます。
先ずはフェミニズムのことです。
ドルマンセは、女性は自身が産んだ赤ん坊を、誰の許可もなく殺す権利があると主張します。確かに科學的に赤ん坊を殺してはならないと云うことはなく、それが唯物論、及びフェミニズムの本質なのでした。女性に何故太ったと云ってはならないかと云うと、女性は男性に慾情される爲に生きているのではないからです。亦、家事ができるのかと冷やかしてはならないのも、子どもの爲の體ではないからです。なので自身の命を存えることや、性の快樂を最優先に、堕胎しても良いのです。流石に産んだ後の子どもを殺害することは合法にならないでしょうが、他の先進國同様に、相手男性の許可無しに堕胎出来る法律になる日は来るでしょう。
フェミニズムは唯物論の一側面である、とはいえ、『閨房の哲學』そのものには、女性はセックスの爲に生まれるとあります。是は、痴漢は被害者女性が魅了したのが惡い、等と云い度い譯ではないでしょう。フェミニズムと同じく、女性が子供や旦那の爲ではなく主體となって性慾をもち、子育てや家事ではなく快樂に生きることを、サド侯爵も又認めているのだと捉えます。
そして、生命倫理のことです。
殺人について讀むとき、私は日米安全保障条約のことが想われました。ドルマンセの樣な、人殺しをしてはならない根拠は無い、と云う思想に安保は抵抗しているのか、と改めて考えて見ると、そもそも問題にしていることが違う樣です。
突然ですが、和月先生は『るろうに剣心』で人殺しをしてはいけないと云う物語を描いた意圖でいても、何うしても人種差別の洗脳を受けているのが見て取れます。90年代に青春を送った先生にとって、未だ米國は大麻を合法化しておらず、作中では阿片そのものを惡としたのです。ロックやフォークの流行と、安保の影響で、米國を正義として盲信する世代であることには違いありません。緋村剣心は自衛隊の樣に自身の手を汚さず、斎藤一等誰かに敵の留めを刺させたり、敵が都合良く自害して呉れたりしています。
ドルマンセは何方かというと科學的、経済的に生命倫理を否定します。一方和月先生は生命倫理を説くのではなく憲法の文脈にあり、両者は對立してはいないのでした。