性的倒錯の意味よりは、社會規範から逸脱して自己表現を極める意味としての「變態」は、近代的な自我の契機でもありました。ルソーが『告白』で牽引した、倫理的な正直さのことです。然しこれは正直さではなく、自己演出として利用されやすい、つまり、消費される属性としての變態となって、現代にも屢々顕れるものです。變態は、個人事業主にとっては自己を販売する爲の資本、研究者や學生にとっては戦後民主主義的な個性として、オフ、オンラインに氾濫しているのです。
恥をも曝け出すことが「正直」であるならば、あらゆる暴力や残酷もまた眞實の表現である――という倒錯した倫理觀は、ファンだけでなくクリエイターをも支配します。筆者は畫家ではありますが、この記事を通じて、變態の元々の姿を掘り起こさんとするものです。
ルソーと同時代であっても、バンクスやハットン、そしてジョン・ハンター等の、episteme eros のない純粋なマニアは、取り上げていません。この記事で触れた人物達はいずれも、知と快樂の境界を侵犯していて、それが近代的自我の萌芽と捉えることができるからです。
『人間不平等起源論』によれば、自然状態の人間は自足的(他者の評価を気にしない)存在でした。然し「社會」が生まれると、他者のまなざしのもとで“どう見られるか”を気にしはじめます。つまり、「社会的人間(l’homme civilisé)」とは、他者の視線、現代でいうところの、フォロワー數や「いいね」に依存する存在なのです。
『告白』の中でルソーは、露出癖を社會的自我の成立過程として位置づけています。裸になりたかったのは、快樂のためではなく、他者の目を通じて自己を確かめたい衝動だった、と。
『告白』後、啓蒙時代のフランスでは、自己曝露が文學的感染を拡げていました。現代の人々の、戦略としての恥と異なるのは、物語によって眞實に迫ろうとしていたところです。ここで、ジュスティーヌとレティフのことを紹介します。
ジュスティーヌ・ド・サンタマンは、ルソーと同時期に活動した貴婦人作家でした。作品の夛くは失われていますが、残存する手紙や断片的な囘想によれば、ジュスティーヌは「男装した女性」と「獣化した愛人」に耽溺していたとされます。獣や下層民のふるまいを演じることで「文化を脱ぐ快樂」を追求したという逸話が残ります。倫理的な正直さとは異なりますが、ルソーの自然を愛す思想を、官能において實践していました。
亦、レティフ・ド・ラ・ブルトンヌの著作は、暴露的テキストとしては、その視點は倒錯的なまでに觀察者です。『パリの夜』や『女の生理學』では、小説でありながら、街の人々を分類・記録したところに特徴をもちます。他人の秘密を覗き見ること、殊に靴や靴下の觀察に快樂を覺えていました。レティフは、貴族の足よりも、労働に疲れた下層女性の足に詩的な美を見いだしていたのですが、これはルソー的な「自然」とも近く、革命前夜の平民意識の萌芽でもありました。 加えて、印刷工というレティフの職業と結びついて、「足跡」や「活字」など、形を残すことに魅了されていたのです。
レティフのように、ルソーに直接触發された文學的暴露ではないにも拘わらず、ウィリアム・ハンターとラヴァター、ブッフナーにも、觀察の官能化が見られるのは注目すべきです。觀察する理性と、觀察に魅了される感情とが共存している、この二重性こそ、近代的な自己意識の誕生を象徴しています。
ウィリアムは、産科學と解剖學を融合させ、「女性の體の神秘」を科學的に再構築しようとしました。弟は動物實驗と生理學の狂信者だったのに対し、兄は人體の静止美に執着していきました。その胎児解剖畫は、いまだに見ていてゾッとするほど美しく、醫學的な正確さと、宗教畫のようなエロティシズムが同居しています。 その解剖室はアトリエのようでもありました。
また、スイス啓蒙期の牧師、ヨハン・カスパー・ラヴァターの觀察にも、科學的距離を失った、陶酔的同一化が見られます。「顏面學(Physiognomik)」は、顏立ちから道德性を讀み取るという如何にも啓蒙的な試みですが、個人的には「理想的な顏面の類型」に異樣な愛着を抱いており、青年の顏を「神に最も近い」と崇拝していました。社會ダーウィニズムによって制度化される一世紀前のことで、まだ顏面學は、單なる美少年フェティシズムに過ぎませんでした。
そして、ドイツの博物學者ブッフナーの手稿には、動物の交尾にもっていた神秘的陶酔への異常な言及が繰り返されます。ルソーが「自然を愛する」哲學的感情を説いた時代に、ブッフナーは文字どおり「自然に戀していた」。動物の生殖器と交尾行動を詳細に觀察し、性的器官を「自然の言語」と呼びました。
一方で、『告白』を罪の正當化と受け取って了った、歪んだ者もいました。ルソー的「自然人」の夢の堕落した末裔に、マルキ・ド・サド及びヴィック=デュ=ヴァル伯爵が挙げられます。
サド侯爵とって自己曝露とは、もはや倫理的行爲ではなく、他者を脅かす快樂の演出に變わっていました。ルソーが自らの恥を通して眞實を示そうとしたのに對し、サドは恥を感じる機能そのものを否定して、娼婦を鞭打ち、媚藥と称する毒を飲ませた罪で、死刑勧告されました。
そしてヴィック=デュ=ヴァル伯爵です。あまり知られていませんが、1770年代に複數の少年を誘拐して觀念的實驗をしていたという報告が、警察文書にあります。
ルソーの『エミール』では、理想の教育が「自然への囘歸」として構想されています。犯行は、子どもを社會的腐敗から隔離し、「無垢な主體」を作り直そうとする神話でした。啓蒙思想の裏側で燃え上がる、闇の理性です。
自我とは、他者に迷惑をかけるしかないもの、という者の振る舞いは、一見、自由で個性的であるように見えます。
然しそれは、例えば性的少數者の擁護の爲に、自己がシスヘテロであることを直視せず、同性愛へ矯正しようとする樣なもので、ありのままの自己は夛樣性の中に位置づけられず、結局個性そのものが否定される――この逆説こそ、近代的自我の光と影を象徴しているのです。