いきなりですが、筍を嫌いなひとが、メンマを食べているとき、友だちから「それ筍だよ」といわれて、途端にメンマが嫌いになるということがあったとします
そのひとが、それまでメンマを平気で食べていたことを「独自の感性」というべきでしょうか
きょうも小論文を書いています。これがなんのブログなのかというと、まさに小論文を書ける機会がなくなったので一人で書いているようなものだと思ってください
そのひとが、それまでメンマを平気で食べていたことを「独自の感性」というべきでしょうか
きょうも小論文を書いています。これがなんのブログなのかというと、まさに小論文を書ける機会がなくなったので一人で書いているようなものだと思ってください
鑑賞というものは、教育される必要があり、正解というものがあります。その正解は大抵いくつもあるものですが、だからといって「メンマは筍ではない」という間違った鑑賞を、正解のうちに数えることはできません
感性豊か、ということは、つまり教養があるということもできます
よく歌の歌詞になどに、教科書に殺される、というような表現がありますが、逆にまずは教科書をよく見て、超えなければいけないかもしれません
感性豊か、ということは、つまり教養があるということもできます
よく歌の歌詞になどに、教科書に殺される、というような表現がありますが、逆にまずは教科書をよく見て、超えなければいけないかもしれません
そのひとのすきな食べ物は、ひとつ減ってしまったわけですが、同時に味覚の教育がひとつ進んだということなので、メンマを食べられなくなったあとのほうが、かえって感じ方が豊かになったというべきでしょう
もうひとつ例を挙げたいと思います
そのゲームは穴ゲーなのに、穴に落ちるとダメージを受けたりバッドエンドになるのではないかと考えて、なかなか落ちず、ストーリーを進められなかったとして、やはりそれは「感性豊か」なのではありません
制作者の意図を汲みながら、このゲームはなにゲーなのかを推理して進めていきます。なんとなく正解に近づいてもサブストーリーやエンドをすべて見つけられなければ、攻略本に的確な正解を求めます
このような制作者の意図を汲むことは、文学や美術にも適応できることです
だから現国の授業は必要ですし、美術館のキャプションは無駄ではないというのが、わたしの考えです
もうひとつ例を挙げたいと思います
そのゲームは穴ゲーなのに、穴に落ちるとダメージを受けたりバッドエンドになるのではないかと考えて、なかなか落ちず、ストーリーを進められなかったとして、やはりそれは「感性豊か」なのではありません
制作者の意図を汲みながら、このゲームはなにゲーなのかを推理して進めていきます。なんとなく正解に近づいてもサブストーリーやエンドをすべて見つけられなければ、攻略本に的確な正解を求めます
このような制作者の意図を汲むことは、文学や美術にも適応できることです
だから現国の授業は必要ですし、美術館のキャプションは無駄ではないというのが、わたしの考えです
わかっているひとにはあまりに当たり前すぎる内容の記事だったと思いますが、わたしなりにまとめてみました
でも、教科書は参考にすればいいですが、その作者のSNSを見たほうがいいかというと、まったくそんなことはないのではないでしょうか。教科書に殺されるということには反対しますが、SNS疲れには共感します