科學史

科學史という分野があります。科學者自身のことや科學の発見を、民俗、歴史、地理、経済などの視点から生々しく叙述する學問です。

文理の「いいとこどり」として紹介されることが多い、文理を迷っているひと向けのとても面白い分野ですが、わたくしの周圍には不快感を露わにしたひとが多かったです。
例えば瀉血について、わたくしが醫學部でもないのに醫療の世界を荒らして、ひとを騙そうとしている、という扱いを受けたことがあるのです。

悲しいのは、わたくしを其のように云ったひとも歴史専攻だったことです。確かに、科學的には、血を抜けばどんな病氣も治る、という事實はありません。然し科學では迷信でも、歴史的には広く瀉血が行われていたのは事實です。迷信と歴史の違いがわからなくなつているのは、わたくしではなくそのひとのほうで、きっとカーの『歴史とは何か』を読むのをサボつたのでしょう。さらに驚くことには、専門は美術史でした。もちろん芸術作品は、瀉血の効果よりさらに客観的事實から遠いです。




そのひとだけでなく、当時の同じ歴史専攻のゼミの仲間からも、バツシングをされました。みんなが、この天才ぶった女子はどうして人文學科に入學したのか、と、苦々しい表情で黒板を見ました。實際のところ「科學」すなわち農學や工學の學生は、釣りや昆蟲採集をしているような、ポケモンの思考回路を引きずる呑氣な男子に過ぎず、自分はちやんと歴史をやつていないと云う、謙虚なひとばかりです。意地悪なひとしかいないのはこの歴史という分野だけで、史學の外に出れば良い意味でアホなひとしかいないのだから、そんなに科學を避ける必要はないのです。しかし人文學のひとびとの「科學」に対する劣等感は相当に大きく、わたくしはゼミの仲間を傷つけることとなりました。
學芸員課程の担当の教授も、自然科學系の博物館ばかりに實習に行きたがるわたくしと、目を合わせないよう一生懸命でした。まるでわたくしがアトムか鉄人28号を開発した博士で、自分は日本産業になんの貢献もしていない非國民だと云わんばかりで、その教授の態度は劣等感を通り越し、罪悪感のようにも見受けられました。


























ここまで愚痴ばかりでしたが、この分野には、人文學と科學を混同した意地悪なひとびとに絡まれてもなお、かけがえのないメリツトがあることを書いておきます。

それは代替醫療に対し、客観的になれるということです。
わたくしたちが万能の治療法を求めがちだということは、歴史や文化に學ぶことができます。

瀉血のほか、デトツクスやオルゴンパワー、東洋醫学など、これをやればすべての病症が改善される、という治療法はどの時代にもあるのです。



動物磁氣はそのひとつです。
ごく稀ですが、痛みを止めると言って、頼まれてもいないのに他人の身体に手を翳すひとが現れますよね。そうしたひとは、拒絶できなさそうな優しいひとや、美人にばかりそれをやるので、出会すとわたくしはなんとなく嫌な氣持ちでした。

醫療の歴史の書籍から、それを「動物磁氣」と呼ぶとわかったときは、それまで大學で除け者にされた苦労が吹き飛ぶほどでした。
元々、動物磁氣考案者のメスメル醫師も、若い女性患者ばかり治療して居た様です。19世紀当時の世間さえ、動物磁氣のことは、女性が集団ヒステリーになるのを観る興行であって、醫療とは受け取っていない様なのでした。
わたくしは、これを讀むひとにハンドパワーを信じるなと言いたい譯ではありません。ただ、動物磁氣を信じるひとたちは動物磁氣やメスメルという名前さえ知らないので、此方のほうがそれを深く知っていると、その自稱ハンドパワーの持ち主たちは、此方の心のなかで無限に小さく縮んでゆきます。そうして心という研究室のプレパラートから出られなくなり、此方はだれにも支配されないでいられるのです。その後、ハンドパワーを信じるか信じないか、自立した國民として、自由に選べる状態こそが重要なのです。