『Jの総て』の舞臺は50年代のニユーヨークで、ホームレスが警官の成績の爲に大量に逮捕されている問題を題材に、論文を書こうと云う辯護士が登場します。その辯護士は、主人公Jの初戀の男性ポールが働く法律事務所の所長で、顏も描かれないのですが、この時代に、祖國の暗部を所謂北部のひとびとが急速に氣づきつつあるのを表現したのでしよう。
Chatgptに、プラトニズムだけでなくマニ教に品質保証を照らすと如何か、と提案されました。このAIと対話していて、マニ教の光とはユーモアであり、闇とはそれを育む他人の不幸や、自虐ネタのことだと気づきました。
それをお笑いにすることを恐れると、布団が吹っ飛ばず、なにも面白くなくなります。
正義やコンプライアンスの名のもとに、「滑らないこと」が善とされるようになると、滑稽そのものが封印されます。その結果、笑いの場所がなくなり、代わりに〈笑えない暴力〉がはびこる——つまり「パワハラ」や「セクハラ」の風景です。
ポールは猶太系、Jは女装家で、この中村先生の傑作には、差別大國の時代背景が無駄なく描かれて居ましたが、まだメキシコやキユーバとの関係が惡化する前だつたのでしようか、大麻は描かれて居ませんでした。『麻藥と人間』によると、21世紀になると、ホームレスの迫碍を起こした同じ思想は、大麻を吸うヒスパニツク系の子どもへと標的を移し、ホームレスと同じくだれも傷つけておらず、なにも盗んでいないのに、ただ弱かつただけで大量に有罪判決されたのです。
米國が惡役を作りたがるのは、よく知られる通りです。昨今ではまたも露西亞が惡者にされることに飽き、此の様なやおい同人誌を描くだけの20代でも、流石に米國のやり口に氣づかざるを得ないなか、品質保証部に派遣されてみて、不良をはじくと云う姿勢について悩む様に爲りました。關係の無い筈の日本企業の品証に、米國の正義感によく似た潔癖があるのです。
とはいえ大した劇的な事件はなく、部署内の單なる氣風の話に過ぎません。
社員が話しかけても来ない職場は初めてのことでした。誰でも、入社時、異動時には「バスがわかりましたか」「お昼はどうしますか」と云う様な、よくある挨拶をされると思います。然し品証には一切その様なアイスブレイクはありませんでした。上から目線でわからないことは聞けと繰り返してばかりで新入りを詰り、相手が話し易い様にするのではなく、報連相できない惡い者を見つけ出す、と云う發想です。指示書やTeamsでの情報共有はなく、こちらが指示をメモすることで上長の機嫌を取るよう要求しました。
いまとなつては、入社前の派遣會社の担当営業の様子から、既におかしかつたことが思われます。此方にスーツを強要したり、なん度もしつこく自己紹介の練習をさせたり、それでいて此方が「面接」と云う言葉を使う度、面接ではない、と慌てました。正義の余り惡いことしかできなくなる、偽善の擬人化でした。
品証がコンプライアンスに拘ると結果的にハラスメントになつて了うのは、枚挙に暇がありません。善意思をもって惡を作りたがる社會に決定的に足りない意識があります。それはコンプライアンスを遵守するのもまた、我慾だから。
物の値段の移り變わりや、取引という對等なゲームを無邪氣に樂しむのではなく、善い人と云われたいと云う下心です。これは筆者だけしか主張していない考えで、支持されたことがないのですが、企業が問題を起こして信用を失う、と云うことは、おもんなかつた、と云うことです。「惡」とは、おもんないことを、ある視點から見た一側面に過ぎないのであり、品証が滑らないよう保身になればなる程、滑ると云えると思います。
米國はあの冷たい経済観で、自らの正義感の熱暴走を冷ましてきました。黑人を大統領に選び、大麻を合法化したけれど、製造業としては、どうして惡を生みたがる〈Quality Assurance〉と云う思想は尚もあり續けるのか、と不思議に感じています。良品を作るのではなく不良品を見つけると云う姿勢のままでは、白人至上主義を卒業した意味がないのです。
それをお笑いにすることを恐れると、布団が吹っ飛ばず、なにも面白くなくなります。
正義やコンプライアンスの名のもとに、「滑らないこと」が善とされるようになると、滑稽そのものが封印されます。その結果、笑いの場所がなくなり、代わりに〈笑えない暴力〉がはびこる——つまり「パワハラ」や「セクハラ」の風景です。
