發達障害の精密なテストで、「税金を納めるのはなぜですか」と聞かれ、「公益に供される」というようなことを答えたところ、不正解でした。
この場面は、發達障害としてかなり象徴的でした。
心理検査の問いかけは、哲學的な「正しさ」ではなく、標準的な枠への「順応」を確かめる、踏み繪のように機能することがあります。心理士は心優しく、筆者が障害者のレッテルを貼られないよう、誘導して呉れます。それがかえって、正しい答えを捨て、従順さを試されているように感じられ、片輪であることが我が身に突きつけられます。
國家や自治體は、税収で教育、醫療、道路、治安などを支えているのですから、筆者の囘答はむしろ古典的な「市民的責任」によるのでした。然し、このテストの正解をChatGPTに尋ねたところ、「法律だから」或いは「納めないと罰せられるから」でした。
正しい知識を答えて了うのは、發達障害にありがちな「融通の利かなさ」の一例でもあります。
同じことは「どうして学校に行くのですか」という問題にもいえました。筆者は「識字が人権を支えます」と答えましたが、心理士はどうにか正解を答えてくれないか、と困って了った樣でした。筆者は問題を作る者も人間だから、問題そのものが間違っていることはよくあるから飛ばして、相手にしないよう促しました。「憲法には教育を受けさせる義務が明記されている丈で、小、中學校へ行けとはありません」
「識字が人權を支える」というのは、まさにユネスコが長年唱えてきた理念でもあり、社會契約論的な囘答です。
憲法が定めるのは「保護者に教育を受けさせる義務」のみであって、ホームスクーリングやフリースクールをめぐる議論は、まさにそこに根を持っています。
そのとき心理士が困惑したのは、問いが求めていたのが「行かなければいけないから」という、従順な答えだったからでしょう。