友だち

子どもの頃、悪口を本人にいえないことを、臆病とは思ったことがありませんでした。
本人にいわず不特定多数に訴えることは、しばしば人前に立つということを意味するからです。演説で、誌面で、法廷で…それを臆病というのは、無理があります。臆病ではないなら、そもそもひとはなぜ、本人ひとりではなく、不特定多数に訴えることを選ぶのでしょうか。





さて、わたくし自身、上司や教員を告発するだけの、攻撃的な青春を送ったものです。きょうは学校のことだけに話を絞りたいとおもいます。学校では外国人の先生のゼミの地位があまりに低く、学長はじめ取り巻きの教授たちに、くだらないいじめを受けていました。その問題について、わたしはいつも人前に立ってきたものの、やはりなぜか教授たち本人に一対一で、ハラスメントをやめるよう相談したことは、一度もなかったとおもいます。

いまおもえば、わたしは誹謗中傷と受け取られかねない危険な演説などをするまえに、敵のゼミの先生、ひとりひとりの研究室へお邪魔することもできたはずです。そして資料を見せてもらうなどすれば、わたくしは教え子となり、卒論の質疑で厳しいことをいわれにくくできたはずなのです。
その際に、なぜ外国人のゼミだけをいじめるのかも、きっと追求できたでしょう。

わたくしはそうしませんでした。なぜ教授ひとりひとりに向き合わなかったかと考えることが、今回のテーマへの答えにもなるでしょう。
理由は2つ考えられます。

まずは、腹の底を明かしてしまえば、それはつまり友だちになってしまうからです。
どんなに年齢や立場が離れていても、目を見て、暴言を吐くほどに、むしろ親しくなってしまうのは目に見えたことです。だからわたくしたちは相手の目を見ず、不特定多数に訴えてしまうのではないでしょうか。

2つめには、じぶんには被害者しか守る力がないと決めつけてしまうからです。どういうことかというと、加害者が加害者となるのを防ぐ力すらあるはずなのに、目下のじぶんには無理だと決めつけてしまうのです。

「いやがらせをやめて」ということはかならずしも攻撃ではなく、上司や教員を逆に「教え導く」ということでもあり、そうした意味では、彼らの味方をすることになります。ひとつめの理由とまとめると、わたしたちは、相手に直接暴言を吐いてしまえば、それはある意味味方になるということであり、友だちになることですらあるので、それが癪で、陰口をいうことを選ぶのではないでしょうか。





このように書いていると、勇敢に人前で演説できても、そのまえに本人に相談してみないことには、やはりナンセンスだとおもえてきました。
法的に訴えて、相手の人生を奪うより、話し合って分かり合うのも、勝利ととらえていい気がします。