好きなものを好きと云わなくていい

オタクをしているとよく「じぶんの好きなものを好きと言えないのは恰好惡い」ということばに遭遇しないでしょうか。
暗は、私の作品を誰かが好きになることはある、と答えます。亦、自身の創作の謙遜や、公開する場所を選ぶ権利の行使は、嘘をつくのとは違います。「好きなものを恥じるな」という論調は消費者のものです。
「愛は口に出すものではない」という考え方もあります。棲み分けや、セクハラに配慮せず、わざわざ不必要な相手に趣味を明かしてしまうと自慢になって、かえって「オタクを目指しているひと」になってしまい、オタクではなくなっています。

「好きなものは好きと言う」vs「愛は言葉にするものじゃない」

これは社会的マイノリティのカミングアウトとパッシングの對立とも云えます。いま考え方をまとめると、「好きなものは好きという」ことの下には「他人に関係なく、好きだから仕方がない。好きなのはじぶんだけの問題だ」ということがあって、それは「言葉にしなくていい」ということと矛盾しないのだということです。
つまり、ふたつは同じことではないでしょうか。

この記事を書くきっかけは、以前ブロ解した苦手なひとが、忘れているのか、またわたしをフォローしたことでした。
プロフィールを見れば、
「好きなものを好きと言えないのは恰好わるい」
「友だちに推し語りをしたらもはや宗教だねと言われて嬉しかった」
「うるさかったらブロックしないでリムってね。私は貴方の投稿が見たいから」
「気になるひとをどんどんフォローしています。フォロバの必要はありません」
など、一方通行の主張を繰り返しているではありませんか。これではまるで、私を物として認識し、性的虐待をしてきた父親と同じ思考です。
好き語りを、宗教だねと言われたら、相手に謝って、もうしつこくしないほうがいいです。じぶんが好き語りする自由許りではなく、相手がじぶんをブロックする自由を認めなければいけません。そして、つぎつぎフォローするのではなく、プロフィールを見るのが思いやりです。そのひとの作品が好きでも、もし自身がそのひとの地雷に当たるなら遠慮することです。








(ひとの自由を守ることが自由だといいます)








「好き」以外に新たなオタクのモティベーションが必要なのかもしれません。でもよく考えると、それは新しいことではなくて、とっくに普及していました。いつでも一部の荒らしが目立ちすぎます。

「好き」のなかに感謝があればその権利侵害の性質を超越できる、と思います。原作への感謝、仲間と出会わせてくれたキャラクターへの感謝、そして仲間が作品を見せてくれることへのありがたみです。普段から「好き」よりも感謝によって創作する、という者がほとんどなので目立たないのでしょう。