憧れと劣等感

憧れは創作の原動力のひとつです。
しかし憧れの作家のアイディアをじぶんの作品に取り入れるのではなく、「じぶんにはムリだ」と比べてしまうだけだとしたら、あまり建設的ではありません。

そうしたとき、抑他人になる必要がないことを忘れる可きではありません。みんなに憧れられ、ああなりたいと懐われているものを、單なる作者の「萌え」を反映したものとして、片付けることにしています。すると、他人の特殊な好みを羨んだり、ましてそれに対してじぶんが劣等感をもつのはほんとうに無意味なことだと解るからです。




例えばマンガ絵について、ロボットや背景を描けるひとに、「あんた人間しか描けないじゃん」といわれてしまうことがあります。
下品なことですが、そんなときはトランスフォーマーや仮面ライダーなどのジャンルに、人外姦を描くひとが一般にいることを想えば、もう、なにもかも何うでもよくなります。最早、人物が得意な者と人外が得意な者とでは、何ちらが繪がうまいかという話ではなく、單なるあほらしい性癖の問題でしかなくなるからです。














さて、突然ですがONE PIECE の話題です。
インドのカーストを想わせる差別を描き、この作品がおとなの讀み物とされるようになってから久しいとおもいます。しかし餘りに残酷で衝撃的なSM設定がよくあり、読者のなかには、これを人権の物語ではなく、尾田先生の特殊な「好み」なのだと気づく樣です。

尾田先生の「好み」として疑わしいものには、差別のほかに、奇形や障害も挙げられます。
肋骨や内臓を感じさせない女性のウエストをはじめとし、もっと奇想天外な體型のキャラクターがたくさん登場するからです。そして最初は爽やかであっさりした性格だったルフィの言動が、どんどんおかしくなり、もはや能力者ということを差し引いても常人ではなく、感情移入できなくなってゆきます。

ONE PIECE を尾田先生の社会的な思想というより、単なる「好み」として捉えるやり方は、過度に作者を礼賛することのない、客観的見方です。
つまり、ただリョナ、奇形、ケモノに萌えるだけのおじさんだということができるのです。これは悪口ではなく、唯物論です。