商人

和月伸宏先生は、『るろうに剣心』連載当時、赤報隊というマニアツクすぎる志士を登場させたほか、いまでも『北海道篇』において何故か御陵衛士の生き残りを描いて居ます。勿論新撰組の試衛館の面面も丁寧に描かれていますが、あくまで物語は衛士たちの無念に寄り添うものです。


ワイルドの『獄中記』には「皮相淺薄のみが罪惡である。すべて理解の上になされる事は善である」とあります。和月先生の善は、相楽隊長を最初に登場させた頃から、30年ほど経つたいまなお尖つています。というのも、わたくしは罌粟はじめ、麦畑の雑草が大好きであつたので、時代劇の様に阿片を非人道的だと決めつけるなんて、先生らしくないなと感じていたのですが、やはりその後、キネマ版で観柳に、惡人ではなく惡徳商人だと發言させ、また恵の登場を、観柳とは無關係の物語に變えるなど、公平さが取り戻されて居たからです。

善惡がひつくり返ることは、赤報隊より、御陵衛士より、藥物のほうがわかりやすいです。確かに観柳は惡役であろうと固執して、新型阿片を、屹度内務省の許可を取れただろうに、態と隠れて製造したのですが、もしそれさえ改めたら、阿片を取引してより大きく経済を囘すことも、より純粋なモルヒネを抽出しようとすることも、惡行ではありません。

わたくしはいま、左之助に殺されそうなことを書きますが、アルカロイドとは、まさに植物の苦味成分そのもので、珈琲なども則ち不味いと云えばそうなのです。無糖の珈琲を飲めないひとが多いように、モルヒネを摂取しても忽ち依存する譯ではないことは、一般に醫師の知るところです。元々苦味を美味しく感じるのは、依存者を取り巻く劣惡な環境、そしてこころの傷の問題なのです。宵太と逢つたこともない恵が、自碍しなければいけないことではありません。

また、蜘蛛乃巣のモルヒネが濃厚になるということは、ロツト毎に致死量が變わつてしまうという、昔ながらの問題を解消するでしよう。コクトオの『阿片』に見られる、「未精製阿片を調合する際には、アルカロイドの配合の分合いは偶然に委すよりほかない」というのは、詩ではないのです。阿片は産地と氣候により、モルヒネの包含量がぶれます。これが粋に近づくほど、1服に同じ量が配合されることとなり、同じ価格で取引することが公平になるともいえます。


阿片の製造を惡とすると、先生の、元々何うしてるろ剣を描きたかつたかと云う處が破綻して了います。それで恵と観柳の設定が變わつたのでしよう乎。わたくしは恵を擁護する同人誌のネームを描いて居たのですが、キネマ版の設定を知つたことで、未だ描かぬ侭無念は報われました。



キネマ版、そして北海道篇を経て、観柳の經濟観がより深く描き直されることで、わたくしは佛文學を讀めるようになりました。もちろん譯文ですが。

佛文學は、その國のシヤビーシツクやアンテイークなどの印象の通り、冷たく素氣ないものです。米國のヴインテージに比べ、ごみごみした温かみはありません。これは情に竿を刺して誰かに裏切られたあとで、モーパツサンが面白くなる、という意味では必ずしもないのです。

観柳はお金によらない取引を避けます。大人になつてみると、確かに無償の親切には、相手にこちらへ指圖する権利が與られてしまい、「金ならある。云うことをきけ」と云う脅迫を、お金で考えることだと誤認しているのも感じられます。家族や舊友たちは、わたくしのかつての夢にも、それを諦めて内定されたどんな職業にも、文句しか言わず、常に裏切りました。お金で雇つた引つ越し業者や不動産屋だけが、わたくしを連れ出してくれたのです。

お金で雇つていないひとからの親切を斷つてみると、愛は苦痛しか生まなかつたということに氣づきます。愛を否定するというよりは、それまで肯定し過ぎていたとわかるのです。誰でも、相手を好きだと云いながら嫌がることしかません。それを理解したとき、つまり癒やされたとき佛文學が面白くなる、と云いたかつた譯です。愛が善として表現されていないニヒルな作品を、客観的に讀み易くなり、筋が頭に入り易くなります。