このブログを読んでいるひとは、作品を作っていたり、ブログを投稿しているひとがほとんどだと思います
わたしたちには、だれもいない孤島で、瓶に入った手紙を海へ投棄し続けるような、空虚な日々が続くことがあります
もう学校に鮨詰めの時代は過ぎ、強制的に作品がみんなに知れ渡ってしまうような機会は、なくなって久しいからです。みんなが注目している…勝手に机を覗かれてイヤだな…どうして学校になんか行かなきゃいけないの? そんな思いはもうなくなっています。あんなに視線が鬱陶しかったのに、いつしか、「きっとだれかに見てもらえるだろう」という切なる願いに取って代わられているのです
いまは孤島にいるからあまり声がかからないけれど、きっとどこかでだれかが、わたしに恋焦がれているはずだ。「あなたの作品がいちばんすき」なんて、一度でいいからいわれたいな…
じぶんでも忘れている学生時代の作品が、ずっとだれかのこころに響いて残っているかもしれない。一度削除した作品を、実はだれかが見ていて、じぶんのことをずっと探し求めているかもしれない…
だから早く新作を発表して、ここにいるよっていわなきゃ!
…そんな幻想をもっているひとは、わたしのほかにも結構います。ブログなどにいちいち「動きがなくてすみません」「作品消します。ブクマしてくださっていた方申し訳ありません」などと謝るひとが多いからです。勝手に決めつけるようですが、実際には残念がるひとなど、いないのではないでしょうか。「どこかでだれかが見てくれている」という幻想に支配されています
でも、ここでちょっと考え方を変えてみたいと思います
学生時代のどこかでじぶんを思いつづけてきたというひとと、リアルに遭遇したら、地の果てまで逃げたいですよね!
そのひとに、「あなたがいちばんすき」、といわれても、その愛の重さとじぶんの作品に対する自信とが一致していないと、なんの意味もないです
かえって、ファンが悪魔に見えるという鬼束ちひろのように、重荷になるでしょう
それに、更新が停滞していたり、休止中の表示があったりするとき、慎重なファンはそのクリエイターにブロックされるのがイヤで、声をかけることを控えるものです
そこをお構いなしに注文するひとがいたら、明らかにビジネスの相手には向いていないので、情けをかけなくてオーケーなのです
いまがどんなに寂しくても、そのいつか現れる「理解者」や「救世主」なんて、本当はいらないなと、わたしは感じています
だれかに見初められるために生きてなんていません。いつか賞をもらえなくても、スカウトを受けられなくても、わたしはわたしだったのにな、といまでは思います
この記事を書いたのは、ちょうど、昨年の今頃に「救世主」たちに出会ったことを思い出したからです
わたしが居心地の良かった孤島から、荒れ狂う海原へと突き落とされたのは、ふと作品制作のツールを変えてみた日のことでした
突然、すごい勢いのラブコールを受けてしまって、トラブルもまた頻発し、「だいきらい」と「だいすき」が渦巻く大海に放り込まれていたのです
クリエイターとしてみんなに監視されて、些細なことで踏みつけられたとおもえば担ぎ上げられ、もはや逃げ場なんてないです
「どこかでだれかが見てくれていた」というのは、じぶんの仕事のスタイルがわかって作風が定着すると、いやでも本当のことになってしまうのでした
救世主を夢見てしまうとき、じぶんの作品が表彰されるところを想像してみることにしています
大勢の来賓やマスコミのまえで、美しい盾を授与される場面です
そして、受けとる代わりに銃を出し、盾を渡すそのひとの額を撃って、ステージから落とすのです
マイクを横取りして、叫んでもいいでしょう。「わたしはなにもいらない!」
するとわたしのからだはポカポカするのを感じます。いま、じぶんの「弱み」を撃ち殺す決意を固めたからです
こころから愛してくれるファン、重要な役目を与える理解者、そうしたひとよりも、ここにいるじぶんをすきだということができると、からだが歓喜に湧きます
わたしたちには、だれもいない孤島で、瓶に入った手紙を海へ投棄し続けるような、空虚な日々が続くことがあります
もう学校に鮨詰めの時代は過ぎ、強制的に作品がみんなに知れ渡ってしまうような機会は、なくなって久しいからです。みんなが注目している…勝手に机を覗かれてイヤだな…どうして学校になんか行かなきゃいけないの? そんな思いはもうなくなっています。あんなに視線が鬱陶しかったのに、いつしか、「きっとだれかに見てもらえるだろう」という切なる願いに取って代わられているのです
いまは孤島にいるからあまり声がかからないけれど、きっとどこかでだれかが、わたしに恋焦がれているはずだ。「あなたの作品がいちばんすき」なんて、一度でいいからいわれたいな…
じぶんでも忘れている学生時代の作品が、ずっとだれかのこころに響いて残っているかもしれない。一度削除した作品を、実はだれかが見ていて、じぶんのことをずっと探し求めているかもしれない…
だから早く新作を発表して、ここにいるよっていわなきゃ!
…そんな幻想をもっているひとは、わたしのほかにも結構います。ブログなどにいちいち「動きがなくてすみません」「作品消します。ブクマしてくださっていた方申し訳ありません」などと謝るひとが多いからです。勝手に決めつけるようですが、実際には残念がるひとなど、いないのではないでしょうか。「どこかでだれかが見てくれている」という幻想に支配されています
でも、ここでちょっと考え方を変えてみたいと思います
学生時代のどこかでじぶんを思いつづけてきたというひとと、リアルに遭遇したら、地の果てまで逃げたいですよね!
そのひとに、「あなたがいちばんすき」、といわれても、その愛の重さとじぶんの作品に対する自信とが一致していないと、なんの意味もないです
かえって、ファンが悪魔に見えるという鬼束ちひろのように、重荷になるでしょう
それに、更新が停滞していたり、休止中の表示があったりするとき、慎重なファンはそのクリエイターにブロックされるのがイヤで、声をかけることを控えるものです
そこをお構いなしに注文するひとがいたら、明らかにビジネスの相手には向いていないので、情けをかけなくてオーケーなのです
いまがどんなに寂しくても、そのいつか現れる「理解者」や「救世主」なんて、本当はいらないなと、わたしは感じています
だれかに見初められるために生きてなんていません。いつか賞をもらえなくても、スカウトを受けられなくても、わたしはわたしだったのにな、といまでは思います
この記事を書いたのは、ちょうど、昨年の今頃に「救世主」たちに出会ったことを思い出したからです
わたしが居心地の良かった孤島から、荒れ狂う海原へと突き落とされたのは、ふと作品制作のツールを変えてみた日のことでした
突然、すごい勢いのラブコールを受けてしまって、トラブルもまた頻発し、「だいきらい」と「だいすき」が渦巻く大海に放り込まれていたのです
クリエイターとしてみんなに監視されて、些細なことで踏みつけられたとおもえば担ぎ上げられ、もはや逃げ場なんてないです
「どこかでだれかが見てくれていた」というのは、じぶんの仕事のスタイルがわかって作風が定着すると、いやでも本当のことになってしまうのでした
救世主を夢見てしまうとき、じぶんの作品が表彰されるところを想像してみることにしています
大勢の来賓やマスコミのまえで、美しい盾を授与される場面です
そして、受けとる代わりに銃を出し、盾を渡すそのひとの額を撃って、ステージから落とすのです
マイクを横取りして、叫んでもいいでしょう。「わたしはなにもいらない!」
するとわたしのからだはポカポカするのを感じます。いま、じぶんの「弱み」を撃ち殺す決意を固めたからです
こころから愛してくれるファン、重要な役目を与える理解者、そうしたひとよりも、ここにいるじぶんをすきだということができると、からだが歓喜に湧きます