封建時代

勉强すると何時でも、勉强する前の樣に興味を失い、探さなくても其處にあったものを身近に見つけるのみです。
耽美系の雑誌や、そこに記述のあつた原典などを讀み込む毎日の中で、偉人が小姓や家臣を抱いたかどうか、もう考えることがなくなりました。何方でも何うでも良いことです。
この境地は現實を見ないのとは違うことで、腐女子趣味からなにも得なかつたと云いたいのではありません。これ迄男色を隠匿されていたのではなく、あまりに當然のこと過ぎて、セクハラにも當るので、大人達が云わないでいて呉れたという側面もあるのではないでしよう乎。いえ、〈封建制度〉と云うかたちで、はつきりと教えていたのかも知れません。



文學や史實のなかにパツシングしたボーイズラブを探さなくとも、〈封建制度〉と云う言葉十分です:着想となつたのは、石井良助先生の『江戸の刑罰』と云う新書でした。先生は時代というものが死刑に顕れるとしています。80年代に、早くも江戸時代を前期後期に分けて、一括りにしないと云う發想をもち、前期の刑罰には、罪人の村や一族を罰する、戦國的性質が色濃いこと、後期は、罪人1人を受刑させることが増えて、近代的になつたことを説明して居ます。一先ず、その境目は『公事方御定書』だとして居ますが、きつぱりした境目ではなく、中世と近代の緩やかなグラデーシヨンが江戸時代を通して見られることを強調しました。中世は封建的で、近代は個人主義的なのです。

その上で、俳聖の少年時代の逸話を知りました。芭蕉が俳諧と出逢つたのは、18歳のとき、伊賀國で役職を受けたときのことでした。喜多唯志先生の『少年愛の連歌俳諧史』によると、 そのとき2歳歳上の武家の青年と戀に落ち、主従となりました。青年は蝉吟と號し、芭蕉は蝉吟に連れられて、同じ俳諧の師匠から學ぶことになつたのです。蝉吟は24歳で亡くなります。若し中世だつたなら、主君が亡くなれば自身も切腹するものです。然し、この時藩は後追いの切腹を禁じており、22歳の芭蕉は浪人となるほかありませんでした。

奉行所から下る刑罰と、自ら行う切腹とは異なるものです。然し中世の、一族や村全體を受刑させることと、小姓や家臣、妻が自決することには、同じ時代の、同じ思想が見て取れないでしよう乎。江戸後期に其れ等が見られなくなつていつたことも同様です。死刑だけではなく、男色のあり方にも、其の時代というものが顕われているのです。石井先生が、中世から近代への緩やかな移行を説明した通り、江戸時代には芭蕉一代の内に、男色が當たりまえにありながら、同時に禁止されても居たのです。











ご存知の通り、中世から近代へいきなり時代が切り替わるのではなく、近世と云う長期間が有り、日本史では織豊時代と江戸時代が其れに當ります。芭蕉の逸話から、近世には、封建制度も個人主義も両方見られ、ありのまま、進んだ時代でも遅れた時代でもないのだと讀みとれます。
現代にも縦社会を振り翳す者がありながら、一方で客観的な経済観に優れた者が居るのと同様、極端な話、縄文時代でさえ両方の人間が居たかも知れません。
個人にも云えることです。蝉吟と芭蕉は氣になる女の子について俳諧しており、常にボーイズラブだつたのではなく、現代の縦社会おじさんも、24時間その立場ではないでしよう。先日、暖かく晴れた日の昼休みに、社員食堂への道のりで、封建制度と書いてボーイズラブと讀む、と閃き、この記事を書こうと思いました。そのときは浮かれましたが、結局ひとはありのままそのひとである、と云う単なる自同律に戻つて来ただけで、わたくし以外の皆んなが既に知つていたことでしよう。



伝統的なボーイズラブでは、受けが殆ど少女の様に描かれるもので、いまでも左右固定とリバ、何方の作品が多いかは明らかです。このブログでは、成る可くボーイズラブを、主君が攻め様、家臣が受けちゃんと云う左右固定厨の思想とし、暗はリバ厨なので心苦しいのですが、一先ずリバの同人誌を度外視することとしました。封建制度とは、攻め様が喘がされて欲しくない、受けちゃんがむさく描かれて欲しくない、という偏見であると捉えることもできます。男色に時代が顕れると書いたのは、この様な異性愛の代替としてのかたちでしか同性愛が捉えられないことが、封建的だと考えたからなのです。