勉強の消費

どうして学校に行くのか、勉強をするのか、考えたことがあるひとも多いかもしれません

わたしもご多聞に漏れず、学校に行きたくないときが多かったです。どうして通わなければいけないか、わかりませんでした



理屈をつけようとすれば、成人すると国の主体となるから、でしょうか
主体とは政府に流されないひとのことですが、もっというと文字を書けるひとのことです。識字が絶対条件となります
それだけではありません。民主主義ではみんなが王族のように、なにも心配しなくても水準の高い学習をさせてもらえることが大切で、学校や図書館、博物館など、すぐ手が届くところにあらゆる教材なければ、国としておかしいわけです





でも、それって勉強が、じぶんが立派な国民になるためだけにある、ということですよね

つまり、わたしたちは学校に行くことがほかのだれの為にもならないので、行っても仕方ない、と感じていた面があったのかもしれません
改めて考えると、よい成績を取ることも……いじめと対峙することも……部活で勝利を収めることも……特にだれかに頼まれたわけではなく、だれかの需要を満たす行為ではなかったです


途上国のルポタージュなど読んでいると、児童労働や児童婚がないことは本当に素晴らしいということがわかるのですが、もしそれが、子どもはひとの役に立ってはいけないという意味なら、ちょっとひどいなと感じることもあります

だれも、わたしがやっていることについて、「それ売ってもいいんだよ」「開業していいんだよ」と言ってくれませんでした





















いつでも博物館や美術館に行けることは、本当にありがたいことで、それらがどれだけの努力の末に国民に明け渡されているのかということは、想像を絶するほどです。歴史に敬意を払わざるを得ません


でも、いろいろな習い事に貢ぐ思考癖がつくと、後悔することもあるのではないでしょうか
勉強は当たり前のことすぎて自慢になりません。なのに自慢してしまうせいで、じぶんがお金を出して奢らなければいけない流れができ、周囲には教材や習い事などの営業目的の人間ばかりで溢れるわけです
生き方そのものがナンパ待ちになってしまい、そういうひとを観察しているとまともな友だちがいないなと気づきます

新しい習い事は、消費者であるという点で、なにも新しくないです。お金を出すのは本当に楽なことです






ひとつの答えを書いておきたいと思います

不思議と他人から頼まれやすいこと。そこからビジネスが始まります
こうなったらじぶんがやるしかないのか、と悟ったり、困っているひとを素通りすることがいたたまれなくなったときなどに、ひとは事業を展開します

他人のせいにする、というのとは少し違います。事業を拡大しないとじぶんのサービスを受けたかったお客さんが漏れてしまってガッカリされるので、やるんです。ひとを喜ばせたいのはじぶんだけの問題なので、取引先のせいだといいたいわけではありません


例えば、プログラミングについてひっきりなしに質問されるので、これはお代を頂いて敷居を上げ、ひとりひとりに対処しなきゃダメだと考え、プログラマーになるというなら、わかります
ですが、資格は多いほうがいい、という見栄のためだけにウェブデザインを学ぶのなら、努力ではありますが、少なくともビジネスの姿勢ではないということです。ウェブデザイナー志望のひとをターゲットにしたサービスを買うだけでは、またウェブデザイナーではないといいたいです




最後に問いかけたいと思います
「一生じぶんのために勉強ばかりして、ひとの役に立っちゃいけないなんて、だれが言ったの?」