或日のこと、自家製のキッシュやタルトを誂える小さなキャッフェにて、筆者は、墺太利の見知らぬ名を持つ、珈琲に洋酒を滴らせた飲み物を注文いたしました。湘南と申せば、一般には米國風の雑貨店やレストランが並ぶ街並を想像いたします。されど、その店は藤澤らしい穏やかさと朗らかさに、突如として獨逸語のメニューを投げ込んでいたのでございます。湯氣と共に立ち上る珈琲の香りは、柔らかな會話と相和して空間を包んでおりました。
ところが、その温かな湯氣の下には、一篇のひんやりとした寓話が沈んでいたのでございます。隣席の女性たちは「互いに互いの興味のないものを一つずつ布教する」という奇妙な規則で話を交わしておりました。見かけは公平に装ってはおりましたが、實のところそれは「自分がされて嫌なことを、相手にもやり返す」という仕返しの強制に他ならず、傍らで繪を描いていた筆者は、思はず唖然といたしました。 ただ「負債を返す」という義務感のみが場を支配し、樂しさどころか、喫茶で芽吹きかけていた友情の芽を踏みにじってしまふのでございます。
かのニーチェは、幸せな者や强者への嫉妬を正當化し、「弱ければ正義」とすり替える感情をressentiment:ルッサンティマンと稱びました。語根の ressentir(感じ直す、繰り返し感じる)とは、「幾度も噛みしめる樣に感情を持ち續ける」と云う意味であると聞き及びます。
社會もまた、所得税を髙所得者からより多く徴収したり、訴訟において弱者に有利な判決を下したりいたします。「被害者は正しい」との發想に立てば、「興味のないものを無理やり勧められた」という被害者の立場を互ひに保証し合ふことに、安堵を見出してしまふのも、體制がさうなのですから、致し方なきことかも知れませぬ。
親しき友を探し求める人々は、もしかすると此のふたりの樣に、ルッサンティマンを何時でも返し合ふ関係を理想としているのではございませぬか。無償の愛を掲げながら、實はその労苦を相手にも味わはせずには居られない――支配の構造とは斯くの如き姿を取るのでございます。
亦、職場を友人作りの場と誤解する人々は、他者が趣味を押し付けぬことを理解できませぬ。私語を控へるのは成熟の証ではなく、ただ休日に樂しいことが無いのだと決めつけてしまひます。かやうな「可哀想な者」を見下す布教は、「これは貴方の趣味より優れている」「知らねば時代に遅れている」といふかたちを取り、哀れみの名を借りた優越感を隠しきれませぬ。
互ひに被害者となれば加害は無かつたことにされる――斯くの如き發想は、夫婦の関係にも影を落としてゐるやうに存じます。たとへば妻が不倫に及べば、妻が一方的に夫を所有することとなり、ルッサンティマンの均衡が崩れるゆゑ非難の対象となります。されど、それは結婚そのものが元来より支配関係であつたことを露呈させたに過ぎませぬ。〈合意〉といふ魔法の言葉で美しく糊塗されてはゐるものの、「互ひに所有すれば奴隷ではない」といふ無理な縫ひ目が、確かに横たはつてゐたのでございます。
素直に憲法を讀めば、家庭といふ制度そのものを禁じてゐるかのやうな文言を幾つも見出せます。十三條〈個人の尊重〉、十四條〈平等〉、十八條〈奴隷的拘束の禁止〉――これらと〈親権〉や〈扶養〉とは明らかに齟齬を來たし、その矛盾の必然として家庭内における暴力や虐待が生じ、ナンシーの説く〈共同體の不在〉を直視できぬ家族達の醜さが浮き彫りとなるのでございます。 La communauté désoeuvrée:共同體の不在は、直譯すれば「本来の機能を失ったコミュニティ」と爲ります。時代が個人主義へと移ろふのは、元来より共同體が虚構に過ぎなかったからでありませう。在りもしない共同體に縋り、異質な相手に押し付けを行へば、それは暴力と化すのでございます。
さらには職場にて他者を「家族」のやうに扱ひ支配する振舞ひは、そもそも家庭において支配を行つてゐた事實を映し出すものに他なりませぬ。子を持つ社員が獨身の社員の言葉を悉く否定して憚らず、「ちゃんと自炊してゐるの?」「彼氏に買つて貰つたの?」と世間話の貌を装ひながら嫌がらせを繰り返すことすら、未だ残つてゐます。職場の同僚に対し、子や配偶者と同じやうに「親切」を押し付けた結果、それが嫌がらせとして發覺された丈のことで、本来は子や配偶者に對しても、倫理を欠いた行ひであつた筈なのでございます。
死刑制度の存續は、共同體の不在を認めきれぬがゆゑに此の國に根を下ろしてゐるのでございませう。體制に所有されることを、家族に所有されることと同列に受け入れてしまへば、違和感を抱くことは難しうございます。死刑存續派の論拠のひとつに「遺族救済」が挙げられます。「家族を殺されたのだから、犯人が死刑にならねば赦せぬ」といふ論は、「己の物を壞されたゆゑ、負債を返せ」といふ支配の論理に他なりませぬ。さればルッサンティマンは、死刑廢止派の論にも潜んでゐます。「犯人にも家族がゐる、ゆゑに被害者であるからこそ同じ苦しみを與へられぬ」と――これは「犯人は家族の所有物だから壞してはならぬ」といふ理屈に通ひ、形式上は反對であつても、論理の構造は同じ線上に並ぶのでございます。
されど、死刑廢止論の核心は本来「命は誰のものでもなく、尊厳あるものであり、國家といへども奪ふべきではない」といふ立場でありませう。それは反戰の理念と響き合ひ、初めて怨恨といふ深き軛から、車輪を外す契機となり得るのでございます。
ルソーやロックの説く〈契約〉は、サド侯爵にとりまして、洗練された奴隷制に過ぎませぬ。侯爵は友情や戀愛、さらには家庭の不在を肯定的に説き、その先駆的な精神は個人主義の文脈にて死刑廢止をも唱へてをります。「國家は國民の福祉や幸福の爲にのみ存し、戰爭が無くなる可きなら、國家による殺人たる死刑も亦、廢されねばならぬ」「個人が一時の激情に駆られて行ふ殺人より、國家が冷静に協議を重ね、計劃的に實行する死刑の方が罪は重い」――斯く語る侯爵の言葉は、國王も貴族も宗教も、その偽善を穿ち抜いてゐたのでございます。
「不在」とは神の死でもありませう。されば神を弔ふことは、自己の怨恨そのものを慰霊することにはならぬでせうか。職場や家庭にて受けた仕打ちは、結局のところ其の共同體が最初から存在しなかった証であり、ナンシーは〈共同體の不在〉を更に〈不在の共同體〉へと展開いたします。互ひに異質なまま欠けを抱へつつ、共に在る――といふのでございます。
ナンシーは、加害者が決して見ることのできぬ眞實を、ひつそりと手招いて覗かせて呉れます。「加害者である樣に見えてゐるものの中には、實は何も無いのです」と静かに語りながら、彼はカフェの天井に積もる埃を淡々と拭ひ取つてをります。煙突の存在に氣づけば、珈琲の湯氣は安らかに昇つてゆきました。
向かひの席に坐したガタリは、その湯氣を見送りながら微笑み、「世界に在るのは、温度や電位、重力、そして人ひとりひとりの〈差異〉に過ぎぬ」と洩らします。その隣に押し黙つてゐたドゥルーズは、「自己も亦、関係性の中に立ち現はれ、常に異なり続けるのです」とひとこと呟き、まるで手品のやうに煙突を消し去り、湯氣も亦跡形もなく消して了ひました。
筆者はその時、ドゥルーズが奇術師であるといふよりも、むしろ――加害者の存在も、加害者が信じる共同體も、悉くが錯覺に過ぎなかつたと悟り、静かにカップを卓に置いたのでございます。
