又吉直樹さんの『火花』は、ひとりの若いお笑い芸人の視点で書かれています。語り手には、1歳だけですが年上の先輩である「師匠」がいて、お笑いのことだけを考える生まれながらの漫才師です。師匠はあらゆるひとから敬遠されていて、語り手のほうが、先に劇場だけでなく深夜番組にも出演するようになりました。作品の中には、憧れているひとが評価されないことへの複雑な気持ちが、生々しく描かれています
まったく別な話、集団からわざと目立つように外れようとするひとがいますよね
飽きた、体力がもたなくなった、盛り上がっているひとよりじぶんのほうが格段に能力が低くていたたまれなくなった、など、ただの本人の事情だと思うのですが、それを見るとブチ切れて集団に戻そうと、乱暴なことをするひともいます
わたしも例えば、ある体育の授業で、教頭とキャッチボールをさせられ、それを楽しそうだと勘違いしたのか、それまで一緒だった友人がわたしをおいてひとりでサボり始めたことがありました。その背中を見送りながら、視界が真っ赤に染まり、何も見えなくなりました。斧でもあったら後ろから振り下ろすのに、と思ったのをいまでも覚えています
また、大人になってからは旅行ツアーで逆の立場になる時もありました。みんなで現地の伝統的なスポーツを体験していたとき、わたしは食事が体に合わなくてホテルの部屋に戻ったのです。そのスポーツをすでにみんなの前で進んで体験していた同室のひとが、激怒して追いかけてきて、わたしの腕をぐいぐい引きました
どちらの経験もしているから思うのですが、群れを離れるひとには、負け組の自覚がちゃんとあって、中心人物を蔑む気持ちはあまりないと思います
その背中が「あんなので楽しそうにしてバカみたい」と語っているように見えたとしても、実際にはただの敗走で、輪の中のひとのことではなく、じぶんを可哀想がることで頭がいっぱいなのではないでしょうか
わたしは一度じぶんがひとの輪の中心人物になったり、売れたりしたとき、前を向いていくしかないという気がします
じぶんの厚塗りに完全に満足しているわけではなく、やっぱりアニメ塗りのひとは上手いなと思うこともありますが、かといって、せっかくアニメ塗りできているのにそれを売っていないひとに賛同する気もないです。わたしはもう、絵を買ってもらったことがないひとや、コミッションに疲れたひとが、絵についてなにやら難しげでお洒落なことを語っていたとしても、迎合することは許されません。かわいそうですが、そのひとたちは絵を仕事にできないことをじぶんで選んでいて、他人がしてやれることはありません
芥川賞が二科会と同じ戦略に出て、又吉さんのような芸能人を受賞させることにしたのだと噂されています。実際、わたしも読んでみて、売れていない師匠に語り手が粘着することが、とてもどうでもよかったです。「他人は他人だ」という決意は、けっこうみんなとっくに固めているのではないでしょうか。わたしが旅行のホテルで安静にしたかったように、師匠のことはおいて行ってあげればいいのにな、と感じてしまいました。正直ただそれだけの作品で、又吉さんのファンでも、火花が一番好きな作品だというひとはあまり見ません