『フラニーとズーイ』を読み終わって『思い出のマーニー』を読んでいます
マーニーの家は裕福で、定期的に婚約者になる見込みの男の子と遊ばなければいけません。女の子と違って、そのエドワードという子は、たまにスイッチが入る時があります。それまで楽しく話していたのに、マーニーが、使われていない古い風車小屋が怖いというと、エドワードは、苦手なものは直視して乗り越えなければいけないと言い出すのです
マーニーはひとりでその風車小屋に行きました。真っ暗なので梯子を見失い、身動きも取れず、いつしか恐怖に疲れ切って眠ってしまいます
フラニーの彼氏が、彼女を論破するタイプだったので、わたしはまたかと思いました
小説のなかだけではありません。思えば自分の父親も10年くらい前までは「厳しい」ひとでした。お出かけのとき、わざと目的の施設から遠い、停めやすい駐車場ばかりを狙って、少しは歩けというのです
父親が「運動しなさい」というと母親はブチギレて、どうしてそんな嫌がらせをするのか、と毎回大声を上げたので、父親の性格はいまでは随分矯正されました。なるべく近い駐車場を探し、降りて歩いてからも女性陣がついて来ていなければ待つか、戻ってきます
父親がただ駐車場を探すのをスキップしたように、男女関係において厳格の正体は、女性をそのひとではなく母親と捉えた人格否定です。
今回書きたいのは「本気」という記事とほとんど同じことなのですが、そちらは男女関係なく書いたので、今回は完全に女性視点で、分けてみようと思いました
つまりわたしが言いたいのは、男性が真面目な恋愛を求めることは、他人にばかり厳しいからだということです
女性の母性ばかりを厳しく求めて人格は認めず、産む機械と思っていることを露呈させます
エドワードが、自分で風車小屋で珍しいものを取ってくるなりすればいいと思います。いちばんいいのはもちろん、男の子も女の子も、子どもが不審者のいそうなところに行かないことですが……
男性は女性の協調性や素直なところにすぐにつけ込むので、いかなる責め立てを受けた時も、男性がやれという労苦を男性自身にさせる必要があります。男性がいうよりも、女性はいつもひとのいうことばかり聞いて頑張っています