『ライ麦畑でつかまえて』は、主人公が高校を退學になるところから始まります。氣が進まないながら、交流のあつた高齢の歴史の教師の家に、お見舞いを兼ねてお別れの挨拶に行くと、教師はやはり将来について真剣に説教をするのです。そして主人公が後悔で一杯になりながら退室するとき、ドアの向こうでなにかひと言發したようでした。よく聞こえなかったものの、主人公は、きっと「グツド・ラツク」だろうと推察します。
しかし、ぼくだったらそんなひどいことは言わない、と語りました。
學生の頃、これを読んだときは、「グツド・ラツク」がなぜひどいのか、不思議でした。
でも、いま思うと、主人公の言いたいことはなんとなくわかります。なにか前向きな正しいことを言う瞬間、言われたほうは、後ろ向きで間違ったひととならないでしようか。
営業マンなどは、後ろ向きなキヤラにされないよう、負けじと笑顔で大きな返事をすればいい、と云うかもしれませんが、人道から修羅道へ堕ちたことをひけらかす者には、わたくしは条約や憲法を持ちだしさえして反對してもいいと感じます。
この世には、皆んなが正しいから戰爭があるのです。侵略國がポジテイブでなかったことがあるでしょうか。ポジテイメブ思考は、ユーモアや風流と違い、なにも生みません。わたくしは無駄なものだけ生み出して進んで間違いをする仕事なのですから、正しさや勝利くらい営業マンに譲ってあげるというものです。
話は變わりますが、お笑いというのは、蒲團が吹っ飛ぶなど、不運なひとを笑う、ネガテイブなものがほとんどではないかと思います。『PEANUTS』のシユルツは「ユーモアは不幸な状況からしか生まれない」と言い、加地Pは「成功者として笑いを作るのは難しい」と言います。お笑いがもしポジテイブだったら蒲團は無事でしよう。ときにテイモンデイ高岸さんのような藝風もありますが、なにを言つているかわからないというところがある意味ネガティブで、ちやんとお笑いになっているのです。
正しさ、というとやはり宗教が思い浮かびます。しかし基督でさえ、戒律を厳守するひとより、犬や子どもが好きですよね。また、阿弥陀仏は惡人を必ず極楽へ導くという誓いを立てていることで有名です。立派な僧侶や豪勢なパトロンを最優先に救済するのではありません。
浄土教のようにそのまま「惡人」「善人」というのではなく、もしかしたら「粋」か「野暮」かと言つたほうがいいのかも知れません。不幸をネタにするネガテイブな者はウケて、幸福を自慢するポジテイブな者はスベるのです。天の國や極楽があるかどうかはさておき、皮肉なことに、正しくあろうと努めるほど、ひとりだけ救われようと慾深くなっていき、神仏が相手のときでさえ、スベつてしまうようです。
しよつちゆうだれかから「きようもお仕事頑張ってください♪」とメツセージを受信してしまいます。なるべく午前中はスマホを確認しないようにして居ますが、ロツク畫面やプツシユ通知などのせいで朝から目に入つてしまうことがあり、その朝が晴れていればいるほど、䑓無しになります。きちんと出社しただけで、通路に侵入した中年の保険レデイがアイドル気取りで手を振つて、「お仕事頑張つてくださあ〜い♪」と笑い、こちらに吐き気を催させる日もあります。杉浦日向子先生は、「頑」という漢字は犬の顏に皺が寄つた象形文字だとエッセーに書き、「あまり褒められた顏ではない」と評しました。咥えた餌をだれにも取られないよう頑張つている様は、蜘蛛の絲をひとりで上り、周りを蹴散らす、ポジテイブなひとの正體を表しているでしよう。