フアーブルが蠍の周りを火で囲むという實驗をしたとき、どれだけ苦しめても蠍は自殺しなかつたということです。フアーブルのように、自殺をするのは人間だけとする考え方は、一般にはいまだ根强く語られます。
しかし、小林武彦先生、田沼靖一先生、山本三毅夫先生など、現在の細胞の専門家の間では、どの動物の死も、大概は自殺だと言われています。例えば皮膚の細胞が次々入れ替わっているのを、わたしたちが自殺し續けているとする見方です。
このような細胞の自歿は個體が生きるためですが、植物が花をつけた途端枯れるように、ひとりの人間が性成熟すると老いるのは、Homo sapiens というひとつの大きな生き物が存續するために、わたしたちという細胞が自歿するアポトーシスだといいます。
次の世代に、父親と母親を掛け合わせた違う遺伝子を遺すので、前の世代は死ぬことを選んだのです。
人間の愚かさ:もしくは特権とされてきたことはほかの動物にも廣くみられ、次々と覆されています。例えば、同性愛、賣春、麻藥の摂取などです。自殺についても誤解が解けるといいなと思います。
自殺なんてするのは人間だけ、というとき、ひとは、口では自殺を人間の行為の中で最も惡いことだと言つていても、そこに人間の特権として誇りに思つてしまつている含みもあって、結局のところ自殺贊美ではないでしょうか。細胞學者のように、自殺は人間性じゃない、なにも特別な出来亊ではないと言つたほうが客観的です。
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關係のない話ですが、幸福追求権というのは、自己實現を强要されているようで面倒だと感じることもあります。
多くの場合、ひとの幸せを願うのは、自分の要らないものをそのひとにあげるようなことになつてしまうものです。例えば娘にミスユニバースを目指させて見世物にし、自分は醜く太つている母親のように。娘に幸せになってほしいなら自分がお手本を見せればいいのに、娘ばかりを都合よく叱るのです。
わたしの周りには、中古の家電のような粗大ゴミを、後輩、部下、附き合つている女性に與え、処分させるひとがたくさんいます。そんなにゴミで幸せになつてほしいなら自分がなればいいのに、と思うわけです。
幸福追求権があらゆるものの前提として、国の仕組みに不可欠なものであることは頭ではわかつていますが、多くのひとから愛されていても不幸でいる自由を認めないと、大好きな親友がアフターフアイブに疲れきつて口が効けなくなつても、美しい女性の後輩が熱中症となつても、信じられなくなつてしまうのです。そのひとは幸せでしかあり得ないという譯です。そのような思考では、我々は必ず、好きなひとを大事に扱わないようになるものです。
別に明文化まではしなくていいですが、ひとりひとりの胸の内では、不幸でいる自由も認められるといいなと思います。