自動化された世界の職人技







窓のリフオーム後、ある主婦のひとが、完了のサインを拒否しました。平行機を使つておらず、素人目に見てもテキトーな工事だつたと言い掛かりをつけるのです。その現場は人手が沢山あつて非常なスピードで工事することができ、営業せずとも周辺の古いマンシヨンから改装の聲がかかつたほどでした。そのひとは、非常に早いのと、平行機がないのとで、テキトーと言つてみたくなつたのだと思います。わたくしだけでなく、やはり後から元請けのほうにも怒りをぶつけて、留まる勢いを知りませんでした。
その事件で浮かび上がるのは、「テキトー」という言葉の二重性――怠慢の蔑称でありながら、同時に人間にしか許されない柔軟さの響きをも持つ言葉の豊かさでした。

そもそも地表が水平ではないのですから、恐らく新築の工事でもそうだと思うのですが、建具の取附は平行に、垂直に行つてはなりません。
元のサツシに新しいサツシを被せるカバー工法というものでは、職人が鏡などを使いながら目視し、元のサツシの癖と、新しいサツシの下地とで相談します。サツシが微妙に撓んでいたりするので、必要なところにライナーを挟んでゆき、その度に角に手鏡を当てます。最後に窓の左右の戸車を、微妙に上げたり下げたりと調整し、要するに水平よりほんの少し斜めでなければ、スムーズな開閉にはならないのです。
癖を目で見るだけなので、腕次第で非常に作業が早く終わることがある譯です。

世界がなんらかの自動的な機關ではなく、ただの善意や、善意ある人々と出会わせる縁で回っていることは、危うくも愛おしいことです。
例えば、電車がいつも停車位置ピツタリに停まるのは、そうした装置があるわけではなく、停車位置に停らなければいけないという法令さえもありません。ただ、運転手の力量と善意によるのです。中學者生の時分、テレビで初めて其を知つたとき、おおいに感嘆するとともに、尠し、テキトーだなと感じました。
もつと規模のおおきな話、紛争になるかならないかの重大な外交でさえ、重大であればあるほど、外務大臣や首相同士のどうでもいい世間話や家族同士の馴れ合いが、最も有効にはたらくのでしよう。どれだけ科学が進歩しても、紛争にならないようにするオートマチツクなマシンは存在しません。職務なのにテキトーだな、という、あの主婦のひとの氣持ちもわかります。
でも、それは幼さと云うものだつたといまでは顧みます。ひとりひとりを無視して、なにもかも自動的で規則的だと思うのは、単純化であり暴力なのです。

人類がどこまで自動化を進めても――水平も垂直も、外交も法律も――結局最後に微調整するのは「人の目」と「人の感覚」なのかもしれません。そこにある種の詩情すら感じます。