「彼はここに属していない、にもかかわらず、ここに来なければならなかった。」(カフカ『城』)
「始まりも終わりもない。常に中間にいる。」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)
「始まりも終わりもない。常に中間にいる。」(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)
私はマイスター・ネーベルと呼ばれている。プラハで生まれたが、ドイツ語を母語とし、いまでもチェコ語は解らないでいる。青年期を丸ごと、マルセイユで過ごしたからだ。
学校でビスクドールに向き合い、ジュモーの下請け工房に雇われることが叶った。だが、私が入社した頃には、もう眼球や関節はドイツ製となっていた。ケストナーやカメオの製品の、耐久性と精緻さに対し、私は素直に敬意を評した。そしてこの都市は、時代の波涛をまともに喰らわずにはおかない。そうでなくとも、故郷ではない土のうえで離人症を発症し、勤続に限界が来ていた私が、斜陽のジュモーにしがみつく理由はなかった。
病理は、私の記憶にない人形を、屡々作業台に現した。その人形は始め部品だったが、確かに私の作風のようなので組み立てると、決まってスラヴの精霊を模った、操り人形となる……そんなことを繰り返す内、私は見知らぬ私に導かれる様に、サーカスの門を潜った。
見世物小屋の裏に回るよう案内されると、水煙草の煙がゆったりと漏れてくる。木戸の中の暖簾を潜れば、サーカスの主が二人、同時に此方を振り向いた。
揃いの黒いフロックコートを纏い、並んでソファに座っている。一人は目や口の周りに白斑のある黒人、もう一人は大きな黒い母斑が顔の左上全体にある白人、そして部屋の奥には、硝子のケースの中に、少年の姿のビスクドールが飾られていた。
「貴方との文通で、なぜこのフランスの顔をした人形が、チェコのクロイを着ているか、まだ聞いておりませんでしたね」
白斑の黒人、メズィが声を発すると、空気は静まり返った。まるで水煙草の煙が、表にある舞台から聴こえる音楽を吸い込んだかのように、時間は重く、湿度を飽和させた。
「ムシューはドイツ語話者でいらっしゃいます。チェコが懐かしいのではないでしょう」
母斑の白人、ドヴァが此方に微笑んで尋ねる。二人ともチェコ語風の芸名だが、私にはフランス語で話して呉れた。
ドヴァとメズィは、パリのサーカスで技を磨いた道化師だった。独立後はチェコの人形師達と共に独自の演出を考案して、興行を成功させたという来歴を持つ。まだパリに居た頃、卒業展の私のビスクドールを見て、譲ってほしいと手紙を寄越したのだ。それは伝統的なビスクドールの、少女とも取れる顔そのままに、少年のクロイを作って着せたものだった。
硝子ケースに私が映る。その奥から、私の最初期の作風の人形が、私の鏡像と重なり合って、こちらを見つめ返した。
「そう……私はフランスではボヘミアの出稼ぎ、ボヘミアではフランスの作風の造形師とされる存在となりました。若しかしたら、意識せずとも、人形でそれを表していたのかも知れません」
ドヴァは、頷いてうっとり目を閉じ、含み笑いを漏らした。
「ふふ、貴方のご家系は……」
「母はドイツ系貴族、父はチェコ人です」
「そうでしたの。これまでムシューにはお手紙で、この頃どんな作品を制作なさっているかと、尋ねてばかりでしたわね。その文通も、貴方が芸術に一筋であることを信頼したが故、心置きないものございましたわ」
メズィが言葉を続ける。
「我々の道もまた、芸を磨くのみとはいえ、身体を研ぎ澄ませてみても、ボヘミアとモラヴィアが自治権を持つのはもう止められない、自然な流れだと感じられるのです」
「政治思想を表現しようと結成したのではないものの、とはいえ時代に逆らう理由もございませんわ」
「我々が文通しながら密かに秘めていた想いです。その時が来たら、我々の資産を僅かながら、チェコ民族復興運動に関わる、目立った事業に投資したいのです」
そこでドヴァは、ティーポットから茶を注いだ。茶の高い香りが、場に区切りをつける。
「もうひとつ、大切なお話しがありましたね」
「私の……」
「そう。貴方のお加減はどうなんですの」
「身体的な悩みはなにもありません。ただ、憶えていないことがあまりに多いのです。業務中なのに、気づくと市場にいたこともありました」
メズィは白い瞼で瞬きし、黒い眼で私をそっとうかがい見た。
「貴方が療養なさるなら、やはり融資致します。返すのには何年かかっても構いません」
「いえ、私は工房の一作業員よりは、造形師として監督者の扱いでした。ですから貯えはまだ……」
そのとき、恰度人形師らしい男が入って来て、三体の操り人形を私に手渡した。調子が悪いのだと、簡素なドイツ語で男は言う。マルセイユから持ち帰った物の中には、制作の道具もあったので、私は直ぐにも作業を始めようと思えば実行できた。
「それを直して下されば、治療を受けながらここに滞在して頂いて構いません」
メズィがそう言うと、二人は立ち上がって、私を宿に案内した。私はこのとき三十手前で、二人組はそれより一回りは歳上のはずだった。然し、いまも化粧をしているのだろうか、パントマイムに鍛えられたすらりとした外見からは、年齢が計り知れない。
見世物小屋と舞台は、ブルノの大きなホテルの庭にあった。私はそのホテルで、医師の診察と治療を受けたのち、修理を依頼された操り人形に向き合った。糸や生地を取り寄せてもらったので、作業にはひと月ほどかかったが、人形師と相談し、芸を見ながら他の人形の調整をも続けた日々は、奇妙で鮮烈な記憶となって、未だ脳裏に生きている。
舞台上のドヴァとメズィのパントマイムは、そこだけ時代が違うように思われた。メズィはドヴァの背中から衣服に手を入れ、若しくは糸に直接触れて、ドヴァを操った。ドヴァは人形として力を抜いて、触れられないとくったりし、操られればその関節だけを動かし、総ての観客を困惑させた。チェコが独立する頃には、珍しい見世物よりも、哲学の磨かれた演出が主流になるのかも知れなかった。
タタッタタッ……金属の僅かな音、ゴオオとシュウウ、という、低い音と高い音の混じった囁き、その日、聞いたこともない音響が小さく耳に入ると、窓の外を巨大な物が覆った。私は思わず窓を開けようと駆け寄った。その時、私は視界の端の作業台に、見知らぬ物が転がっているのを捉えたのだ。
影が通り過ぎて、飛行船は上空へ飛んでいく。
転がっていた物は、明らかに関節が精巧で、部品としては完成しているように見えた。私はそれを手に、自己と見知らぬ人形職人とを、重ね合わせようと試みた。
何故マルセイユでは駄目だったのか、この疾患は何なのか、ブルノのサーカスの屋根を超えて遥かモラヴィアまで、奇妙な内省はどこまでも拡がっていく。私と、見知らぬ私は、飛行船に乗って帝国全体、そしてヨーロッパ大陸まで、連れ立って見下ろし、やがて眼下に広がるゲルマンとスラブの綾なす地形を、しげしげと眺めた。そこには、他者との間に生じてしまったに過ぎないものとしての言語、民族、自己がある。観察しているうち、いつしか部品は、ひとつの見覚えのない操り人形として、私達の眼前に完成していたのだった。
依頼された三体の人形のどれとも異なる、私自身の作風の操り人形−−−天候を操る人面鳥、アルコノストというスラヴの妖精−−−会ったことのない私が痕跡を遺したのは、それが最後だった。
それを医師に話すと、自己解離の治療として木に触れ、祖国の民話や伝説を彫るのは良い考えだとのことだった。
サーカスがまた旅に出る頃、修繕が完了すると、私は依頼者に人形を差し出した。そして内省で浮かび上がった心を、そのまま告げた。
「このアルコノストだけではありません。私はマルセイユにいた頃から、意識しないうち、チェコの伝承に登場する妖精の操り人形を作っていました。貴方がたが時代の流れに従うように、私はプラハに還ったら、操り人形に転換しなければいけないようです」
それは別れの挨拶のつもりだった。
「本当に?」
メズィが自身の胸元を押さえて声を上げた。
「はい。貴方がたの意思に反してしまうのでは……」
融資を断る言葉を口にしようとしたが、ドヴァの反応は、予想したものではなかった。
「飛んでもない……まあ!……本当なのかしら? それならうちの人形劇の人形を作っていただきたいわ」
「当初は、ムシューというボヘミアの若者が、フランスで認められる夢を一緒に見ていたかったのですけれど、でも、それは高度な文化があれば、チェコ独立の根拠となるからでもありました」
そして喜んだ庇護者は、操り人形師達を集め、私に、勝手に新しい人形劇の脚本を説明し始めたのだった。