『夜想』7號の高山宏先生の記事では、19世紀末を席捲したダーウイニズムが解説されて居ました。ダーウイン自身は、地味な作業一つ一つを遂行し、必然を受け入れただけの客観的な研究者なのですが、世間は進化論を、おのれさえ生き残ればいいと云う弱肉彊食として捉え、發明の機運と合流し、健康器具が流行したのです。登山や海水浴の樣に自然の中で鍛えるのではなく、機械の中に肉體を収めることで、近代科學をつくつた白人であることに陶酔するのです。
先生は世紀末の囘る遊具や健康器具の多さに着目し、人工物だけで完結した世界観を〈円環〉と称びました。
秋に、名前に『關西』の附く化學メーカーに派遣されました。すると大声で樂しげに、大阪から出る迄蛙も見たことがなかった、Gには耐えられない、フライドチキンの骨が怖い、採血では動けなくなったことがある、等と話す大阪出身者の聲が聞こえます。こうした情け無い姿態をかえつて身の潔白として自慢してしまう態度は、霜降り粗品さんにもよく見られます。粗品さんが蟲を積極的に憎惡することは有名ですが、Youtube では動物のコンカフエで、犬猫の肋骨の感触さえ怖がつて居るのです。
大阪の漫歳では、血統の良い小型犬を揶揄するネタが偶に見られます。暗としても、確かに動物愛護のなかにルツキズムの酷薄さはひしひし感じて居るので、同感することもあります。可愛い動物だけ贔屓するのは、實は大層冷たい性格です。然し周りの大阪出身の社員と粗品さんの態度を知つた後では、血液や臓器、ばい菌等を過度に怖がつて居るからそのようなネタが出來ただけだ、とも捉えられます。動物愛護が賢いとは云いませんが、かといつてそのネタも無知の顕れかも知れません。
本當に、日が沈み夜が来ることも知らず、その野菜が葉なのか、實なのか、根なのかも知らない、何も考えていない者に較べ、大阪の者は積極的に、人工物しかこの世にあってはならないと云う姿勢で生きて居ます。大阪の街は意識的に造られた巨大な円環ではない乎、と考え始めた譯です。想えば、遊園地と万博は等しく白人の自惚れを起源とするのであり、ルナパークと万博と云えば大阪なのでした。ここ迄記述してきた、生き物が怖いというのは表れ方のひとつに過ぎないでしょう。人間中心とも異なります。亦、あの藤井風のような土地に對する無神経な口の利き方も、大阪がいちばんだと云いたいのではないように感じます。その中に確かに動物を恐がらず、沖縄等大阪ではない土地を愛する者も存在するからです。それでも、近代以降の人類は地球環境から完全に獨立して居る筈だ、と云う宇宙ステーション的世界観があるのです。