サド侯爵のいる時代






Youtubeのお勧めに、頻繁に「ルソーは露出狂だった」と云うトリビアが出て來ます。視聽して見ると、讀み上げられたトリビアに對し、平生は全くリアクションしないタモリさんが急に喰らいつき、「此の時代は變態の黄金期なんだ」と司會者に力説していたので、サド侯爵のことを云って居る樣でした。暗がずっと前から表示されて居たこの動畫を今になって視聽する氣になったのは、マルキ・ド=サド『閨房哲學』に、ルソーを暗喩する青年が登場していた爲です。サド侯爵とルソーは同時代の思想家でした。
「偉大なひとには特別なところがあるんですね」とお決まりの言葉も聞こえてきたのですが、精神病患者や障碍者を冷やかすビジネス書染みた理解の他に、わたくしが提案したいことがあります。世紀末の視點です。

この頃、わたくしは『閨房哲學』とザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』とを、圖書館や古本屋で求めて、讀むことができました。そして感じたのは、サド侯爵にサディズムの思想はなく、サディズムとマゾヒズムは雙方ともザッヘル=マゾッホの思想と云えそうだ、と云うことでした。『毛皮を着たヴィーナス』には、人間は必ず、支配しなければ支配される丈だと説かれて居ます。序盤で、未だファム・ファタールに出逢わない主人公が、召使いを不必要に呶鳴ったり殴ったりする貴族の仲間を慌てて止めた時、仲間は人間関係には必ず力關係があることを語り、召使はこれで幸せなのだと説明しました。短篇はカテリーナ2世の治世が舞臺であることが殆どで、女帝や女将軍が美男子を漁り、鞭で支配します。こうした、人間は皆SかMかだと云う決めつけと、ご主人様の存在とは、今日流布するSM観に似通って居るのです。
一方で『閨房哲學』で鞭は中盤まで全く使用されず、主人公が女性を鞭打ったと思ったら自身も後ろから男性に鞭打たれていました。また、あくまで恋愛の物語だったザッヘル=マゾッホと異なり、サド侯爵は神と共に恋愛まで否定していました。鞭より際立っていたのは飽くなきアナルへの執着で、サド侯爵は主人公の身を借りて、幼児や男性にも挿入することを教唆するので、此れはご主人様として愛しい奴隷を世話するのではなく、單なる反道徳なのだと云えます。

とはいえ共通點もあります。ザッヘル=マゾッホは19世紀末、サド侯爵は18世紀末の人物だというところです。世紀末と云えば、ワイルドのサロメや谷崎の直美に代表される樣なファム・ファタールが顕れますが、ザッヘル=マゾッホが女性権力者のフットレストになることを夢見たよりも更に政治的に、サド侯爵もまた女性開放を説いて居ます。女性が大學へ行き就業すること、婚約者以外と夛くの關係をもち子どもを誰の許可もなしに殺すこと、などを當然の権利とするのです。魔性の女と女性解放が繋がって居るのは新しい發見でした。