歯を磨いても






今年の目標はNARUTOを讀破することなのですが、改めて讀んでみて驚いたのは、敵の組織や人物が、戰争を止めることを目的とし、平和を求めて居ることでした。

暗は畫家のくせに反戰を唱えたことがありません。バトルものを讀む上で、それは偽善でしかなかったのです。それに、戰争をなくせると信じることは、時代は良くなると云うわかり易い思想に飛びつくことに過ぎず、進歩史觀と云う點では、反戰は帝國主義と何う異なるのでしょう。
暁の影のリーダー:オビトの目的は、萬華鏡寫輪眼を月に投影して、月讀と云う、見た者を洗脳する術をかけ、地球上の全生物をオビトにすることでした。
平和主義と世界征服は手を繋いでやって来ます。

時代は良くならない、というわたくしの信念は、暁の結成當初のリーダー:長門の發想と共通します。「痛み」が壮絶であればある程、その後平和な時代が長く續く、と云うのです。オビトの計劃と異なり、これは單なる生理衛生の説明でしょう。わたくしの愛する『夜想』にも書かれていたことで、平和に倦むと戰争となり、戰争に厭き厭きすれば平和が訪れると云う歴史觀です。わたくしが反戰を唱えないのは、戰争なんかなくならないよ、と拗ねているのではなく、時代は惡くもならないと云い度い丈なのです。

上記を纏めると、NARUTOを讀破する爲の問題はふたつある樣です。ひとつめは、反戰の作品の作者自身が、戰争を描き度いことです。我々の推しを殺したのは、推しを生み出して呉れたのと同一人物なのです。ふたつめは、戰争をなくし、幸せで明るい社会を目指すことが、つまり戰争であることです。個性を大事にしろと強制し、全體主義に爲ることもできます。

茲でPizzicato Ⅴの『戰争に対抗する唯一の手段は』と云うアルバムを引用して見ましょう。
検索すると、その手段とは「各自の生活を美しくして、それに執着することである」と出てきます。このアルバムに収録されているのは、水森亞土やカヒミ・カリィ、キリンジ等、同じ時代に活躍した、平和を願うアーティストがピチカート・ファイヴをカバーした曲なので、これらのアーティストのファンにとっても有名な言葉の樣です。とはいえ、幼妻をもって血統のある猫を飼い自身の家の無事だけを願え、という、戰争に明け暮れる金持ちが既に實行している、意地汚い思想にも聞こえてしまうので、翻譯を試みます。實際、明らかにこのアルバムのパロディである塊魂は、ゲームの名前や宇宙のコンセプトからしても、平和主義が帝國主義に陥った典型と云うほかなく、ピチカート・ファイヴのことを言葉通りにとらないよう注意が必要です。
美をユーモアに置き換え、男前でない藝人さん等も含めましょう。戰争を描けないことは尚更問題なので、戰争やバトル、ゴア表現の作品も含めると理解します。お笑いからも分かる通り、ユーモアは不幸な状況から生まれるので、戰争すら善惡で語る可きではありません。
さらに、日常、すなわち人権を守っていくだけでもライブイベントと云う變化を起こさなければいけないので、執着と云う表現も翻譯します。地味な日常の繰り返しに感謝することで、人生を全部一氣に變えられる、と云うわかり易い思想に騙されるな、ということではないでしょうか。
アルバムの表題から遠く離れて超譯することとなってしまったのですが、「戰争に抵抗するよりは戰闘や戰時下の不幸を作品にしておもろくできたら此方のもの」「毎日歯垢がついて歯を磨くことの繰り返しで問題ない」と云うことです。