『ラスト・ウォー』というゲームで日本人の荒らしに絡まれました。自身の連盟の基地が筆者の連盟のメンバーに攻撃された、と連日DMしてくるのです。「無用な争いはしたくない」と綺麗事を述べ、またその連盟のメンバーは、全て美少女をプロフィール画像にした女性ユーザーで統一されており、無垢な被害者を演出していました。正々堂々と攻撃され、單に自己の陣営が弱いから負けただけなのに、聖人ぶることを目的にしているようです。
筆者自身も林檎の花をプロフ画像にしていたので狙われたようなのですが、他者を支配したい者の偽満を暴くには、女性をその人格としてではなく、性役割を通して見ているかどうかです。周りが美少女だけなのは、お馴染みの陳腐なパティーンです。
同じような、基地を大きくしてサバイバルするゲームには、レーダーを使った生存者救出による人口増加に重點を置いたものが複数あるのに、そちらに移らないで「ウォー」という名前のゲームを續けているのは偽善を露呈させます。
筆者は畫家のくせに、反戰を唱えたことがありません。理由は、バトルものを讀んだり、戦争のゲームをプレーすること以外に、戰争をなくせると信じることは、時代はより良くなると云うわかり易い思想に飛びつくことに過ぎないからです。進歩史觀と云う點では、反戰は帝國主義と何う異なるのでしょう。この荒らしのように、宣戦布告した者を人種差別し、平和憲法を口実に選民思想に浸るだけです。
暁の影のリーダー:オビトの目的は、萬華鏡寫輪眼を月に投影して、月讀と云う、見た者を洗脳する術をかけ、地球上の全生物をオビトにすることでした。
平和主義と世界征服は手を繋いでやって来ます。
時代は良くならない、というわたくしの信念は、暁の結成當初のリーダー:長門の發想と共通します。「痛み」が壮絶であればある程、その後平和な時代が長く續く、と云うのです。オビトの計劃と異なり、これは單なる生理衛生の説明でしょう。わたくしの愛する『夜想』にも書かれていたことで、平和に倦むと戰争となり、戰争に厭き厭きすれば平和が訪れると云う拍動です。筆者が反戰を唱えないのは、戰争なんかなくならないよ、と拗ねているのではなく、時代は惡くもならないと云い度い丈なのです。
茲でPizzicato Ⅴの『戰争に對抗する唯一の手段は』と云うアルバムを引用して見ましょう。
検索すると、その手段とは「各自の生活を美しくして、それに執着することである」と出てきます。このアルバムに収録されているのは、水森亞土やカヒミ・カリィ、キリンジ等、同じ時代に活躍した、平和を願うアーティストがピチカート・ファイヴをカバーした曲なので、これらのアーティストのファンにとっても有名な言葉の樣です。とはいえ、幼妻をもって血統のある猫を飼い自身の家の無事だけを願え、という、戰争に明け暮れる金持ちが既に實行している、意地汚い思想にも聞こえてしまうので、翻譯を試みます。實際、明らかにこのアルバムのパロディである塊魂は、ゲームの名前や宇宙のコンセプトからしても、平和主義が帝國主義に陥った典型と云うほかなく、ピチカート・ファイヴのことを言葉通りにとらないよう注意が必要です。
美とは、ユーモアも悲劇も包含した物語全般のことと読み取れるので、男前でない藝人さん等も含めましょう。戰争を描けないことは尚更問題なので、戰争やバトル、ゴア表現の作品も含めると理解します。お笑いからも分かる通り、ユーモアは不幸な状況から生まれるので、戰争すら善惡で語る可きではありません。戦争を語れるとは、支配ではなく共有できる状態を意味します。戦争を「語れるもの」にするという行為そのものが、支配の連鎖を遮断する力になり得るわけです。
さらに、日常、すなわち人権を守っていくだけでもライフイベントと云う變化を起こさなければいけないので、執着と云う表現も翻譯します。地味な日常の繰り返しに感謝することで、人生を全部一氣に變えられる、と云うわかり易い思想に騙されにくくなる、ということではないでしょうか。
アルバムの表題から遠く離れて超譯することとなってしまったのですが、「戰争に抵抗するよりは戰時下の不幸を作品にできたら此方のもの」「毎日歯垢がついて歯を磨くことの繰り返しで問題ない」と云うことです。
私たちにできるのは、反戦と戦争の振れ幅を小さくするという、血糖値のような發想です。長門が誤ったのは、プラトー、つまり物事には本来頂點は必要ないことを知らなかったからではないでしょうか。
戦争をゼロにしようとするほど、ゼロの反動が大きくなります。“理想を掲げる”という行為そのものが、絶食若しくは爆食いみたいなもので、振れ幅を小さくするには、もっと地味な営みが要ります。
作品としての語り、ユーモアの浄化、批判の共有、記憶の保存、個人の生活の小さな調整……これらは、血糖を緩やかに上げ下げする低GI食品に喩えられます。効果は地味だが確実で、爆発的な理想よりも社會の體を守ります。
私たちにできるのは、反戦と戦争の振れ幅を小さくするという、血糖値のような發想です。長門が誤ったのは、プラトー、つまり物事には本来頂點は必要ないことを知らなかったからではないでしょうか。
戦争をゼロにしようとするほど、ゼロの反動が大きくなります。“理想を掲げる”という行為そのものが、絶食若しくは爆食いみたいなもので、振れ幅を小さくするには、もっと地味な営みが要ります。
作品としての語り、ユーモアの浄化、批判の共有、記憶の保存、個人の生活の小さな調整……これらは、血糖を緩やかに上げ下げする低GI食品に喩えられます。効果は地味だが確実で、爆発的な理想よりも社會の體を守ります。
