身体という借景:性的虐待被害者の客観性

性的虐待を受けた者の「服装で別人のようになる」だとか、「助けてもらいやすくなる」「下ネタばかりになる」といった話は、臨床の現場でたびたび観察されることがあるそうです。服にコンセプト性があり、かつ下ネタが夛過ぎることで、被害者叩きを受けたり、他人から「尽くされすぎ」と嫉妬される状況は、単なる偶然や趣味の幅広さではないことになります。ただし、性的虐待があれば科学的に「必ずそうなる」という因果が確立しているわけではありません。


まず「同時期に異なる系統の服を持つ」という話です。
虐待を受けた子どもは、自己の身体に対して“所有感”が弱まると言われています。これはdissociation「解離」と呼ばれる反応で、身体表現を外側から“設計”したくなるのです。異様にスタイルの統一感が出る 、逆に系統が分裂していく、または素材やシルエットに強いこだわりを持ち始める、という観察が報告されることがあります。

次に「甘え上手」という現象です。これはトラウマ後のいわゆるattachment disturbance「愛着の揺らぎ」で説明されることが多いです。虐待を受けた子は、逆説的に「誰かに拾ってもらえる」「守ってもらえるはず」と語る場合があります。この言葉は、現実の安全への信頼というよりも、心が瓦解しないために作り出した“世界の仮説”のようなもので、希望というより精神的な浮き輪に近いものです。
そして「下ネタしか云わない」という特徴です。これはひとつには「境界の混乱」で説明できます。性的な領域でバウンダリーが破られると、自己の身体、他人の身体、許される距離感、それらの区別がゆらぎます。この揺らぎが疑似的な“早熟”に見える言動を生みやすいのです。さらにもう一段奥にあるのが「防衛としての茶化し」です。これは externalization「外在性」という、痛い記憶を軽く扱うことで距離を作る心理的メカニズムで、性に関連した怖さ・恥・混乱を、笑いで中和しようとします。


『こどもの時間』でのりんの描写は、作者がかなり大胆に「虐待を経験した子どもの心の不安定さと、異様なほどの適応の早さ」を混ぜて描いたケースですよね。フィクションではあるけれど、現実の臨床で見られる反応の“影”を拾っているところがあります。

りんが「年齢に合わないほど大人びている瞬間」と、「子どもらしさを通り越した甘え方」を行き来するのは、虐待を受けた子がときどき取る“二重露光”のような心のあり方に近くなっています。
そして別人のような服装の変化や、他人への「助けてもらえる」という幻想的な期待は、物語的な誇張を含みつつも、実際のトラウマ反応の一部を反射しています。

りんのませているところは、解離による客観性のほかに、笑いが下ネタに偏りすぎているところからきていますが、筆者も女性でありながらヌードデッサンの技量をあけすけに誇る職業であり、成人向けのBLも描きます。
BL創作がトラウマを持つ人に多い、という研究は「決定的な統計」とまではいかないけれど、しばしば語られているようです。 女性にとって自分の身体やジェンダーを直接使わずに、親密さや依存・支配といった心理的テーマを扱える安全な空間として、BLが機能しやすいという議論は臨床でもあります。解離性症状までなくとも、日頃職場でのセクハラや、街での痴漢に晒されるなかで、女性を性的対象にしない男性でないと受け付けない、ゲイに片思いしたい、と感じるようになるわけです。BLは「自己の経験を直接書かなくていいのに、自己の心のテーマが表現される」手段になり、それはいわば“心の影絵劇”:直接向き合うには痛い記憶を、誰か別の人たちに演じてもらうことで処理する、精神の工夫なのでしょう。

筆者は衣類を購入するときと周囲から嫉妬をされるとき、そして成人向け作品を描く時、性的虐待の被害者であることを改めて自覚し、観察します。服装の目立ってコンセプト的な同性が、周囲に「尽くされて」いて嫉妬することは、自然な流れと言えます。ですが、虐待被害者に周囲が嫉妬するのは、ほんとうに皮肉で、ほとんどコメディのような構造です。「可哀想が偉い」という極端な価値観を採用したのは、筆者に嫉妬する人々自身なのに、その基準でいくと、より過酷な経験を生き延び、しかも現在の生活と周囲からの信頼を獲得している筆者のほうが、“偉い存在”になってしまいます。
その瞬間、ルサンチマンの価値体系は自分自身にブーメランのように当たって形を崩す。性的虐待の被害者が“勝っている”のは、相手を踏みつけて得た勝利ではなく、論理が自壊している事実そのものが示す、静かな優位ですね。
ルサンチマンは、しばしば“逆転した道徳”を生み出して、自己を慰めようとします。
可哀想であること=正義
弱いこと=純粋
不遇であること=深み
そんなふうに世界を書き換えます。しかし強度は、苦しい過去があったにもかかわらず、その過去に寄りかかって価値をつくろうとしないところにあります。
「私が不遇だったから偉いんだ」ではなく、「私は私のまま歩く」、この姿勢が強度のない人たちにはどうしても理解できません。そして理解できないものに人は嫉妬するのです。
ルサンチマンの価値観をそのまま適用すると、論理上筆者が“勝つ”。でも、その勝ち負けの枠組み自体を必要としない地点に、立つことができるのです。

ルサンチマンは虐待と同じく、支配や所有の仕組みのひとつでもあります。勝者は勝者であるゆえ、敗者に債務を負わされており支配されている、というおかしな論理だからです。ですが元々身体とは、解離性症状がない者にとっても、所有できるものではないはずです。
所有というより「借り物」「管理できない器」として身体が感じられることがあります。ただ、この感覚はトラウマの結果というより、人間という存在そのものの哲学的な構造にも触れることができる入り口です。身体は確かに“物体”だけれど、心がそれを自由に使えるわけではありません。心臓は勝手に動き、腸は自律的に蠕動し、睡眠欲や性欲は暴発します。身体の恒常性は、まるで別の生命が中に住んでいるみたいで、自己が主人ではなく「合いの手を入れる観客」みたいな瞬間があるのです。“所有”という言葉ではまったく追いつかず、精神にとってむしろ“共存”とか“共同経営者”に近くなります。
虐待が起きると、この“主体じゃなさ”がさらに濃くなります。身体を通じて境界が破られた経験から、「これは私のものだと言い切れない」 という感覚が生まれやすいのです。危機の中で、人は「身体がひどい目にあっているけれど、“私”はここにいないことにしよう」「この状況を外側から見れば、耐えられる」という生き延び方をつくり出すことがあります。それが続くと、精神に“観察者”が住みつくのですが、こうして形成された観察者は、大人になってから別の形で強みに化けます。自己の精神が炎に包まれているときでも、その炎のゆらぎを冷静に測定でき、他人の感情の構造も、まるで透明な内部配線を見るように読み取れるのです。
解離性症状の違和感は、心理学の問題だけでなく、人間の身体論の核心を突いていて、デカルト以降の哲学や現代神経科学でもずっと議論されてきたテーマなのです。単なる傷跡ではなく、人間が自分という存在をどう定義するか、という巨大な問題に触れています。
傷ついた経験があると、身体と精神の縫い目が一度ほどけますが、 そのほどけた糸を別の縫い方で編み直すことができ、所有じゃない形で、自分の身体とつながる仕方がありえるのです。


これは「性的虐待を受けた子ども特有の絶対的サイン」ではありません。逆のパターン——服装がむしろ異様に整う、誰にも助けてもらえるとは言わず、世界を完全に不信の目で見る、まったく性を話題にしなくなり沈黙したり、過剰に逃げる——という子もいます。人間の心は単一の反応パターンでは動かない。